Sick City

第三章・悪鬼羅刹

 ダークエルフの女性士官モルディラは、今回の作戦においての最優先目標である結界の破壊を目論んでいた。西の砲撃による陽動作戦にエルフの目が向いている隙に、東より結界を破壊する。ダークエルフがエルフより分たれてから長年温めてきた秘策であった。
「これで終わり。後はオーガ兵に任せて高みの見物といきましょうか」
 古木の幹から伸びるいくつもの枝を、巨大なハサミに似た刃物で切断していく。片方を足で固定し、もう片方を両手で押し込む事で太い枝も簡単に切断出来る。これはこの時の為に開発された『枝切り鋏(ばさみ)』という得物で、交差部分の支点となる要(かなめ)ネジを外して分解する事で、二刀流の武器へと変わる。
 結界の消失は木の精霊ドライアードによる視界の捏造を正常化し、目に映る木々の景色が若干変わったように見える。これは精霊を見る事が出来る者であれば看破出来るのだが、そうでない場合は歪められた景色によって視覚を誘導させられるようになっており、これは例えるなら遊園地のミラーハウスのような効果を与える。
 結界の消失によって幻惑の効果を失った森に、屈強なオーガ兵が侵入する。
 オーガとはゴブリン族から生まれた突然変異種で、ホブゴブリンよりもさらに大きな身体を持つ。2メートルを軽く超える巨体で個人としての戦闘力はゴブリン軍の中でも抜きん出ているが、その代わりに知能はあまり高く無い。
 草原からオーガ兵が侵入して来るのを詰め所のエルフ達が監視していた。
「奴ら入って来たぞ」
「毎度毎度、懲りない連中だ」
「迷って消耗したらいつもの様に挑発して分断させろ。後は各個撃破だ」
 巨木の上から飛び降りて行くエルフ兵達。しかし彼らは、既にダークエルフが侵入している事を知らなかった。エルフから分かれたとは言え、ダークエルフもエルフと同じく精霊使いである。
 スプライトと呼ばれる風の精霊の一種に働き掛ける事で光の屈折率を操作し、現代科学で言うところの光学迷彩のような効果を発揮する。これによって相手に気付かれる事なく侵入を可能としたが、もしもエルフ兵がもう少し警戒心を持っていれば看破出来た筈であった。
 しかし今回の作戦を行うに当たり、以前からこの東側に対して何度かゴブリン兵による侵入を繰り返していた。それによってエルフ兵は侵入者に対する先入観を植え付けられ、今回も以前と同じような繰り返しだと勘違いしてしまった。今回は貧弱なゴブリン兵では無く、屈強なオーガ兵と言う事で本人達はいつもより警戒しているつもりであったが、既にオーガ兵の侵入前にダークエルフの侵入を許してしまっているので意味が無い。
「何だ? 奴ら真っすぐこちらに向かって来るぞ!?」
 オーガ兵達が全く迷い無く詰め所に向かって来る事に対し、エルフ兵達が動揺を見せる。元々、周囲の木々に比べて目立つ巨木を目指して突き進んでいる上、結界が機能しなくなった為に迷わず一直線に進む事が出来た結果だった。結界を過信し、目立つ巨木のデメリットを考慮してこなかったツケを今まさに払われる事となった。
「慌てるな!落ち着いて樹上から矢を放てばいいんだ。どうせ奴らには何も出来ん」
 一人のエルフ兵のその言葉により、動揺していた他の兵達が落ち着きを取り戻していく。オーガ兵は確かに屈強だが、樹上にいる身軽なエルフ兵に攻撃が届く訳が無い。逆にこちらは弓矢で一方的に攻撃出来るのだ。
 その絶対的なアドバンテージが『ある』と思い込んでいた彼らにとって、オーガ兵が手にしているある武器の存在は特別注意を払うべき物として映らなかった。
 その武器は長い鎖の先にスパイクの付いた大きな鉄球が繋がっているという奇妙な武器で、エルフ兵達にとっては初めて目にする武器であった。この武器は『鎖鉄球』と呼ばれる投擲武器であり、鎖に繋がった鉄球を振り回す事によって遠心力を得て強力な威力を発揮する。
 オーガ兵達は互いに間隔を開け、歩調を合わせて進軍してくる。
「放てッ!!」
 樹上からエルフ兵達による弓矢の一斉射が放たれる。それに対してオーガ兵は鎖鉄球を振り回し、目前に掲げて矢を防ぐ盾とする。
「何だとおッ!?」
 回転する鎖に悉く阻まれ、エルフ兵達の放った矢が地面に落ちる。オーガ兵達が互いに間隔を開けていたのは、鎖鉄球を振り回す時に互いに接触しないようにする為だった。森の木々は密集して生えている訳では無いので、立ち位置にさえ気を付ければ木々への接触も無い。
「グガアッ!!」
 逆にオーガ兵の放った鉄球がエルフ兵目掛けて飛び、三人のエルフ兵がその餌食となった。
「ぎゃあッ!?」
「ガッ!?」
「ごはっ!」
 30メートル程の距離はあったのだが、どうやら鎖鉄球の届くギリギリの距離だったらしい。実はこの武器を考案したのはモルディラであり、彼女はエルフ達の弓矢がどの程度の距離で攻撃するのかを熟知していた。通常、弓の射程距離はもっと長く、例えば日本の源平合戦の頃に用いられた強弓であれば長距離曲射でおよそ200メートル程度であったと言われている。現代のアーチェリー競技では90メートル射で競う事になっている。
 エルフの用いる弓は俗に『複合弓』と呼ばれる物であり、大きさは日本の和弓などと比べると小振りだが、その代わりに複数の素材を組み合わせて小さな力で大きな威力を得る様に改良が加えられた弓である。厳密には和弓も複合弓なのだが、ここでは別物として扱う事にする。
 射程距離は通常の弓に比較して差がある訳では無いが、樹上や木々の狭間から敵を狙う性質上、森の木々という障害物に阻まれてしまう為に平原での戦いとは勝手が違う。良くて30メートルも確保出来れば上出来とされており、その代わりに立ち位置を頻繁に変えたり木々に隠れたりする事でカバーしている。
「うわっ!?」
 エルフ兵の一人が突然悲鳴を上げる。見れば躱した筈の鎖鉄球が腕に絡み付いており、オーガ兵に引っ張られて地面に引きずり降ろされてしまったのだった。樹上から落ちてしたたかに背中を地面に叩き付けられ、身動きが取れない。そこへ肉迫して来たオーガ兵が鎖のもう片方の先端に付いた船の碇のような鈍器を振り上げ、エルフ兵を撲殺してしまった。
 さらにいくつかの狙いを外した鎖鉄球が木の幹に絡み付き、或いは幹にぶち当たって粉砕し、樹上のエルフ達の内5人がバランスを崩して地表に着地する。そこへ鈍器を振りかざしてオーガ兵が襲い掛かり、たちまち蹴散らされてしまう。
「一瞬で9人やられたぞ!?」
「これはちょっとマズいんじゃないか?」
 残りのエルフ兵達に再び動揺が奔る。一方的に攻撃すれば100名ものオーガ兵も退けられるとの過信が崩れ、ようやく自分達の勝ち目が薄い事を実感した。精霊の力を借りたとしてもおそらく勝ち目は薄い。そもそも彼ら国境警備のエルフ兵は若者が多く、上級精霊と呼ばれる強力な存在を召喚出来る訳でも無い。残りたったの11名で100名ものオーガ兵をどうにか出来るような力は持ち合わせてはいなかった。
 そんな折りだった。唐突に出現した炎の球がオーガ兵の群れ目掛けて飛び、中央で炸裂した。
 ズドン!!
「ギャッ!!」
 何匹かのオーガ兵が炎に炙られ、一匹が火だるまになる。炎は凄まじい燃焼速度でオーガ兵を焼き尽くし、たちまちその全身を炭化させてしまった。これは自然の発火現象ではあり得ない。
「あっ!あいつは!?」
「ハーフエルフじゃないか」
「今のはあいつがやったのか!?」
 エルフ兵達の視線の先、少し離れた樹上に何かの書物を手にしたレミュエールの姿があった。
「ふぅ、何とか上手くいった。初めて使う術だから時間が掛かっちゃった。でも殺しちゃったんだ」
 レミュエールは初めて何者かを殺したと感じ、恐ろしさに身震いした。例え相手が敵で醜いオーガであっても、やはり生き物の命を奪うという行為自体が忌避感を生む。とは言え、事前にレイジによる『群の認識』によっていくらか戦う覚悟を持っていた為、すぐに割り切って次の行動へと移る。
 人間の生み出した古代王国の魔術理論、これを『古代魔法』などと呼ぶが、今回レミュエールが使った火の球の術は古代魔法の理論の『投射』の中に分類される『炎球(えんきゅう)』である。投射術式は術者が体内で練り上げた魔力(マナ)を外へと放出し、指向性を持たせる。本来は高度な術でかなりの精神力を消耗するのだが、レイジと繋がった為に外部の魔力を己に取り込む術を自然と身に付けていた結果であった。
 レミュエールは書物を腰に下げたヒップバッグに一旦納め、今度は弓を構える。しかしその手に矢は握られていない。それどころか矢筒も無く、エルフ兵達は次に起きた出来事に驚愕する。
「……あ?」
「何処から矢が出て来たんだ?」
「隠し持っていたのか?」
 いつの間にかレミュエールの手に握られていたのは、白銀に輝く金属製の矢であった。
「飛んでシロガネ!!」
 レイジと契約した結果、アカシック・レコードによる示唆によってレミュエールは『死角』より『シロガネ』と呼ばれる未知の矢を取り出す事が可能となった。決して破壊される事の無い、特別な矢。複合弓より放たれたシロガネは狙い違わず一匹のオーガ兵の額を貫く。
「グガッ!?」
 炎球によって生み出された炎に炙られて怯んでいた一匹が、鎖鉄球による防御をする暇も無く打ち倒される。しばらく立ったままの状態でびくびくと全身を震わせていたが、やがて立ったまま息絶えた。
 そこへ走り込む影がひとつ。
「グゲッ!?」
 ズバン!!
 一人の男が、未だ炎に怯んでいたオーガ兵の一匹の懐へと潜り込んでいた。素手の両掌がオーガ兵の腹に叩き込まれている。大きな音が弾け、オーガ兵は白目を剥いて仰向けに倒れる。そのままピクリとも動かない。
「……素手であのオーガが死んだ!?」
「バカな。オーガ兵は多少の傷も物ともしない再生能力を持っているんだぞ」
「何者だあいつは!?」
「人間じゃないのか!?」
 突然現れた男、それもどうやら人間の男らしい者が素手でオーガ兵を一撃で倒す。全く信じ難い光景を目にし、エルフ兵達は驚愕する。この世界で、素手で人間がオーガを倒したなどと聞いた事が無い。しかもたったの一撃で。
「ウガアッ!!」
 目の前に突然現れたちっぽけな人間風情に舐められてたまるかと、近くのオーガ兵が襲い掛かる。振り下ろされた鈍器を体重移動を伴った特殊な歩法で躱し、擦れ違い様に反転して右の踵が姿勢の低くなったオーガ兵の後頭部に叩き込まれる。
 ガッ!!
「グゲッ!?」
 慌てて頭を上げようとしたオーガ兵に対し、そのまま左脚が跳ね上がる。
 ガキッ!!
「グボッ!?」
 両脚で挟み込まれたオーガ兵の頭。それを支点としてぶら下がった身体を捻り、スタンディング首四の字固めの体勢でオーガ兵の首を捻り折る。
 ゴキリ。
 上下逆さまとなったオーガ兵の顔が、紫色に変色して口から泡を吹いていた。それでも持って生まれた再生能力のおかげなのか、びくびくと全身を震わせて両手でレイジの身体を掴もうとしている。
「ふんっ!!」
 しかしレイジはオーガ兵の肩を蹴って頭上へと飛び上がり、頭上に伸びていた木の幹に両手を付いて反動を得て急降下、屈伸して力を溜めた右脚から踵蹴りが炸裂する。
 ズドン!!
 レイジの放った頭上からの踏み付ける蹴り技により、上下逆さまのオーガ兵の顔が踏み潰される。強烈な一撃は再生能力を持つオーガ兵と言えども充分に殺す威力があり、さすがに屈強なオーガ兵と言えども堪えきれずに地に倒れ伏した。
「……何だ今のは」
「何という動きなんだ」
「あれが人間に可能な動きなのか!?」
 レイジの見せた常識離れした動きを前に、エルフ兵達は驚きを隠せない。
「……凄い」
 レミュエールも今の攻防を見て驚いていた。レミュエールが弓と魔法で敵の注意を引き、隙を付いてレイジが撹乱するという作戦を立てていた。しかしまさか、ここまで圧倒的な強さだとは思ってはいなかったのだ。エルフは人間よりも身軽で素早いと自負さえ持っているが、今のレイジの動きはそんなエルフ達でさえ真似する事の出来ない動きだ。
 対して今の動きを見てようやくレイジを強敵と認識したオーガ兵達が、騒然となりながらも周囲を取り囲む。そして今の攻防を見ていた者が遠くにもう一人。
「……何なのアイツは」
 高みの見物を決め込んでいたモルディラは、人間の男が突然乱入して来た事に当惑していた。ハーフエルフの少女が古代魔法を使い、何やら見た事の無い矢を放ったのを見ても大局には影響しないと高を括っていた。それがあの人間の男の場合は勝手が違う。単純に、その動きが圧倒的過ぎて個人としての戦闘力が桁違いだと感じたからだ。
 素手でオーガ兵を一撃で倒す。
 そんな存在は即ち、一騎当千と呼ばれる英雄しかいないのではないか。たった一人で戦場を支配し、戦局を覆す存在。しかしそんな英雄がいるのであれば、自分が知らない筈が無い。それなのにあのような男がいるとは聞いた事など無い。
「……これは様子見した方がよさそうね」
 元々モルディラは最前線で戦うタイプでは無いが、仮にオーガ兵達がある程度倒されて作戦に支障を来そうとも、積極的に戦闘に介入するような真似はすまいと決意を固める。そもそもモルディラは指揮官を任せられているので本来ならばこのような単独行動を取るべきでは無いのだが、作戦の都合上どうしても必要なので現場の指揮はゲッシュに任せてある。
 ダークエルフの士官が密かに様子を伺っている中、レイジの背後からオーガ兵が襲い掛かる。
「ふッ!」
 しかしオーガ兵の鈍器の一撃をあっさりと躱すと、その場で反転して勢いを付けてオーガ兵の首筋に手刀を叩き込む。
 ドゴン!!
 手刀を叩き付けた勢いそのままにオーガ兵を地面に叩き付け、まるで車で人を跳ね飛ばしたかのように巨体のオーガ兵を吹っ飛ばしながら後ろへと一気に滑るように駆け抜ける。そこにたまたまいたオーガ兵の懐に入り、もう片方の掌で腹を打つ。
 ズシン。
 全身から練り上げた衝撃が掌から伝播し、オーガ兵の内蔵諸器官に痛烈なダメージを与える。たったの一撃で悶絶死してしまうオーガ兵。
 レイジがオーガ兵を引き付けている間、レミュエールがエルフ兵達に声を掛ける。
「今のうちに撤退して!中央から増援を呼んで来て!!」
「わ、分かった」
 本来ならばハーフエルフの小娘に命令されるなどプライドが許さないが、さすがにこのような状況で己の感情を優先するような輩はいなかった。エルフ兵達はレミュエールの声にあっさりと頷きを返し、即座に撤退を開始する。それを見届けたレミュエールは、オーガ兵達と戦うレイジへと再び視線を向ける。さらにもう一匹の片膝を蹴りで粉砕し、体勢を崩した所で頭上へと飛び上がって踵で踏み潰す蹴り技を放って仕留めていた。
「レイジ!!」
 レミュエールが呼び掛けるとレイジが片手を上げて合図を返す。それを見届けたレミュエールはレイジを残して撤退する。幹から幹へと飛び移りながら撤退するレミュエールを確認したレイジはさらにもう一匹を打ち倒し、その場で両脚を大きく拡げて横回転をする。
「グゲッ!?」
 目の前にいた筈の敵の姿を見失い、戸惑うオーガ兵。
 レイジはその場で低姿勢で回転しつつ片足を軸とし、まるでコンパスが交互に軸を入れ替えながら反転と逆反転とを繰り返すような奇妙な動きを連続で取り、周りを取り囲むオーガ兵達の間隙を縫うようにすり抜けていく。訓練によって培われた独特の歩法は見る者を惑わし、また余りにも早い動きの為にオーガ兵達は全く反応出来ない。
 そうして一瞬で木々の狭間へと身を隠し、オーガ兵達が気付いた時にはレイジの姿は忽然と消えていた。遠くから観察していたモルディラもしばらく様子を伺っていたが、結局見失ってしまった。
「……何て奴なの」
 ようやく地面に降りてオーガ兵達の傍までやって来たモルディラは、残るオーガ兵達に周辺の警戒を命じる。モルディラ自身も下草などに残る足跡などの痕跡を探し、どうやらあの男も樹上へと飛び移って逃げたらしいと判断する。
「敵ながら天晴れ、と言ったところかしらね。あのまま戦ってたらどうなっていたのやら」
 あの男がいくら強いと言っても、疲れれば動きも鈍るだろう。そうなればオーガ兵で無くても討ち取れるだろうが、それまでにどれだけの損害が出るのか未知数ではある。さすがにそのような、計算出来ない要素に戦力を裂く気にはなれない。モルディラは出来る事ならば、あの男とは二度と会いたく無いものだと思うのだった。


 急遽編成されたエルフの各部隊は執拗な砲撃を繰り返す西のゴブリン兵を駆逐する為、常春の森から出て丘陵地帯へと進出していた。軍楽隊は本隊の布陣の最後尾に位置取りをしており、その中にリリーンネールはいた。
「やっぱり遅かったのよ。敵の撤退に追い付けていないじゃない」
 エルフ本隊は既に丘陵地帯を占拠していたが、迅速な撤退をしたゴブリン部隊の置き土産に苦しんでいた。
 ズドン!!
「……地中の爆弾にまた引っ掛かったわね」
 轟音のした方向を見ると、土煙と共に数人のエルフ兵達が吹き飛ばされていた。厄介な事に、丘陵地帯の地中に爆弾が埋められていたのだった。どういうカラクリなのかは分からないが、爆弾の上に乗ると爆発する仕組みになっているらしい。
「撤退命令が出たぞ!」
 どうやらこの惨状にようやく追撃を諦めたらしく、誰かの声で撤退の報せを知る。撤退とは言ってもまだ森林火災は沈静化しておらず、そちらの消火作業に回る必要がある。しかし地中の爆弾を警戒しての撤退は遅々として進まず、軍楽隊は本隊よりも先行して撤退する事になった。
「火の勢いが止まらないぞ!」
「ここは諦めろ!燃え広がらないようにする方が先だ!!」
 消火作業の最前線ではエルフ達の必死の消化が行われていたが、可燃性に優れたガソリンによる炎はエルフ達がバケツリレーをしたところで容易に消せるものではない。別にバケツで水を汲んで火を消そうとしてた訳では無いが、例えば水の精霊の力を借りて大気中より水を生み出し、それで消化する方法を当初は試みていた。
 しかし火災旋風が巻き起こる程の高熱の中で、周辺の大気は既に乾いてしまっていた。仕方無く火災の外からちまちまと水をかけて防火しようとしたものの、やはり高熱ですぐに蒸発してしまうので役に立たなかった。ナパーム弾による火災は酸素と可燃物がある限り森を燃やす。
 現代であれば酸素を一時的に奪うなどの方法で消火を促したり、化学薬品を使用した消火法もあるが、この世界ではまだそんな方法は考案されていない。
「……もう森を切り倒すしか方法が無いわね」
 消火作業に立ち入る隙も無く、呆然と炎を見詰めていたリリーンネールは諦めたように呟く。どこまで燃え広がるのか定かでは無いが、まだ燃えていない木々を切り倒して火勢が届かないくらいの空間を開ける。これは例えば、日本の江戸時代の火消しが取った方法に似ている。現代の消防車など大量の水で消火出来ない昔の人々は、燃え広がるのを防ぐ為に敢えて隣接する家を取り壊した。
 ここにもしレイジがいたのであれば、土砂を使った窒息消火を思い付いたかも知れない。大地の精霊の力を借りれば可能となる方法であった。しかしエルフ達が好んで扱う精霊では無い為、彼らには思い付かない発想であった。
 なので現状取り得る方法は、樹木を伐採して防火帯を作る事である。これは現代の地球の森林火災でも取られる事がある方法であり、この方法が最終的な対策となる。
「防火帯を形成しましょう。いいですよね?」
「そうだな、それしかあるまい」
 リリーンネールは現場の指揮を取っていた民兵隊の隊長を見付けて具申した。隊長は今まで部下と共に、水の精霊の力で生み出した霧を周辺に散布して火の勢いを若干弱める努力をしていた。全く無駄という訳では無かったが、消火では無く防火、しかもかなり消極的な方法であった。隊長自身も内心は木を切り倒すしか無いとは考えてはいたが、エルフ社会においては木々を切り倒すという行為は本来タブーとされているので決めかねていたのだった。
 ようやく防火帯の準備に入った民兵隊を見て、リリーンネールはため息を付く。
「はぁ、責任者が責任を取りたがらないから何もかも遅くなるのよね……」
 木々の伐採には斧を使うしか無い。しかしエルフという種族はあまりこの斧という道具には馴染んでおらず、寿命を迎えた枯れ木を切り倒したり、間伐で不要な木を間引く際などに使うだけだった。つまり、民兵隊全員に行き渡る程の充分な量を確保出来ない。
 結局、防火帯を作る班と今までと同じ消火作業を続ける班で役割分担する事となった。
「敵襲だ!中央に敵が侵入!!」
 突如、周囲に大声が響き渡る。風の精霊の力を借りた風伝令。遠く離れた場所へ声を届ける伝達方法だ。
「どうなってるのよ!結界や国境警備隊はどうなってるの!?」
 消火作業を手伝っていたリリーンネールは思わず叫んでしまう。国境から中央行政区まではエルフの足でも二時間は掛かる。それだけの距離を誰にも気付かれずに侵入するなど、今まで誰も考えもしなかった。結界は既に二時間も前にモルディラによって無力化されていたし、国境警備隊は西と東に意識を向けていた。南にもやはり20名程度の警備兵はいたが、東にレミュエールとレイジがいたのとは違って増援は無く、結界が機能しなくなった事を知らずにあっさりと全滅させられていた。
 東から撤退して来た警備兵達の報告により、中央から東へ向けて増援部隊が出発した。そしてその後の警備が出払った隙を突き、南から侵入したゴブリン兵が奇襲を掛けたのだった。
「我々は防火帯の形成で動けん!消火班は急いで中央へ戻れ!!」
 民兵隊の隊長の号令により、消火作業中だった者達は慌てて中央へと走る。斧を用いた木々の伐採にはそれなりの膂力を必要とする為、全て男が担当していた。水の精霊による消極的な消火作業は残りの女性達によって行われていた為、必然的に中央へと向かうのは女性ばかりになってしまった。


 リリーンネールが中央へと到着した時、既に中央行政区はゴブリン兵によって蹂躙されていた。残っていたのは中央警備隊150名の他は非戦闘員ばかりだった為、必死の抵抗も虚しくほぼ壊滅状態であった。元老院の議員達はかつて兵士であった者も多く、卓越した精霊使いでもある筈だった。しかしゴブリン兵との戦力差を覆せる程の人数がいた訳では無く、相手側にもそれなりの損害は出したものの、最終的には力尽きてしまったのだ。
 道端の至る所に死体が転がっており、その多くは老人や子供であった。エルフの老人は外見的には若者とあまり変わらないのだが。
「おのれゴブリン共め!」
 それらを見て激昂したエルフの若い女性兵士が矢を放つ。
「ギッ!」
 しかしゴブリン兵は三日月型の盾を構えて矢を防ぐ。
「風の精霊よ!大気を切り裂く刃となれ!!」
 リリーンネールの放った精霊魔法は不可視の刃となってゴブリン兵の首をはねる。行政区の路上でリリーンネールを中心とした部隊は、略奪中だった多数のゴブリン兵と衝突していた。この中央に攻め込んで来たゴブリン兵は軽装歩兵の殆どであり、西で伏兵に当てた200名を除く残り1000名が投入されていた。
 エルフ兵は全戦力の5050名の内、民兵隊4000名、国境警備隊300名、中央警備隊150名、森林警備隊500名、軍楽隊100名がその内訳である。中央に戻って来たのはその内の女性民兵500名と軍楽隊100名であり、人数的には不利であった。
「うあっ!」
 女性エルフ兵の一人がゴブリン兵の放った投げ槍に胴体を貫かれて倒れる。軍楽隊の精霊魔法と民兵の弓矢に対し、ゴブリン兵は投げ槍と爆弾で対抗してくる。弓の方が射程は長いが、ゴブリン兵は盾を装備しているので防がれる事が多い。そうなると二の矢を番える内に投げ槍の射程となり、投げ槍を失った後は爆弾へと切り替えてくる。
 次々と倒れていく双方の兵士達だったが、損耗率はゴブリン兵の方が多い。エルフ兵は精霊の力で怪我をした者が即座に戦線に復帰出来るが、ゴブリン兵にはそのような真似は出来ない。
 戦場では単純な生死だけで兵士の損耗が計れる訳では無く、怪我による一時的な戦線離脱なども考慮されなければならない。こうした負傷者をどう扱うかも軍隊の運用における重大な要素の一つであり、医療方面における手厚い対応がエルフ側の特徴であった。
 怪我によって後退した女性エルフ兵の傷を癒すべく、リリーンネールは治療の術を施す。
「水の精霊よ。体内を駆け巡る水の流れを加速させたまえ」
 水の精霊ウンディーネに働きかけ、肉体の自然治癒力を一時的に増大させる。爆弾によって腹に深い裂傷を負っていた女性エルフ兵は、急速に塞がっていく傷口を見て安堵の表情を浮かべる。
「助かったわ」
「失った血が戻る訳じゃないから、後ろで何か口に入れてきなさいな」
 リリーンネールの忠告を聞いて女性兵士は後方へ退く。軍楽隊は本来は呪歌で味方を鼓舞するのだが、乱戦となってしまうと格好の標的となってしまうので精霊魔法による援護に切り替わる。
「こっちの方が押してるけど、数で負けてるから簡単じゃないわね」
 西から戻って来たリリーンネール達は未だに行政区の西側の外縁部で足止めされており、白亜の塔を奪回する目処は立っていない。その時、慌てた様子で一人のエルフ男性が駆け込んで来た。
「大変だ!背後からホブゴブリンの重装歩兵が来るぞ!!」
「何ですって!?」
「防火帯を作っていたところを襲われたんだ!げほっ!本隊は殆ど壊滅状態だ!!んんっ!はあっ、はあっ」
 息切れが激しくて話どころじゃないようなので、水を飲ませて少し休ませる。しばらく息を整えて何とか喋れるようになった。
「火災を利用しやがったんだ。延焼地域へ追い立てられるように包囲されてどうにもならなかった。慣れない斧で戦うしか無かったし、完全にしてやられたんだ。丘陵地帯で足止めされてた連中もやられちまったらしい……」
 この報告によって、ようやくリリーンネールはゴブリン軍が周到に練り上げられた作戦を立てていると知った。丘陵地帯で足止めされていた民兵隊3000名は別地点へと用意されていたゴブリン兵の砲撃陣地からの再度の砲撃によって総崩れとなり、散り散りになったところを重装歩兵600名の密集陣形によって殲滅されてしまったのだ。
「いくらか逃げ仰せた奴はいるが、多分そんなに多くない。合流してもどれだけの戦力が残っているのか……」
 エルフの最高指導者である行政官や政治を担っていた評議会の議員は既に亡くなり、守るべき民もその多くがこの中央で命を失った。残るは民兵隊の生き残りが500数名と軍楽隊の100名。たった数時間の戦闘でこのような結果となったのは、長命故の怠慢が原因だったのか。
 長い時を生きたエルフ族の絶滅が、すぐそこまで迫っていた。


第十三話・妖精舞踏
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