Sick City

第二章・魔王激震

 旧神域エ・テメン・アン・キは神域カンナビに比べ、その円筒の内側が広大に作られていた。円筒の壁面は曇っていてよく見えず、重力の働く方向も壁面では無くて底面になっているので現在位置の把握が難しい。『心眼』のおかげで、底面の中央付近に私達が潜って来た門がある事が辛うじて分かる。周囲を見渡せば、数多くの円柱が天に向かってそびえ立っており、その他の構造物は見当たらなかった。
「何だか殺風景な場所だね」
 見上げた空は黒っぽい雲に覆われてよく見えない。
「あの雲は可燃性ガスで、神経毒の作用もある。我々は『暗黒瘴気(あんこくしょうき)』などと呼んでいる」
 私の声に、同じく空を見上げたアヌビスがそんな事を説明する。それを聞いたカンナカムイが、続けて地獄攻略の概要を説明する。
「我々はこの円筒の最上部を目指す訳だが、本来は空を飛んで行くのでさして問題では無いのだが、空を飛べない場合の手段として、外壁に沿って備え付けられた階段がある。これを使って登って行くしか無い」
 アカシック・レコードにて共有される情報によれば、このエ・テメン・アン・キの高さは約1kmもあり、横方向の広さは空間を制御して物理的な大きさよりもさらに空間を拡げてあり、直径にしておよそ800kmもの広大な空間を得ている。その為か時間の流れが緩やかで、あまり長い事ここにいると浦島太郎のようになってしまうかも知れない。
 私達の現在地、『門』は円筒の中心にあり、私達は現在地から約400km先の壁面へと移動し、さらに1000メートルもの登山をしなくてはならない事になる。例えるなら東京から直線距離にして北は岩手県、西は神戸と言ったら分かりやすいかも知れない。黙って聞いていると、さらに説明は続く。
「ここから壁面まではかなりの距離があるからアヌビスが巨体化してその背中に皆が乗る、という形で移動するのが一番早く到着するだろう。頼めるか?」
「いいだろう。元々私は空など飛べんしな」
「それは私も同じです」
 アヌビスの返事に美雪ちゃんも相槌を打つ。実は空を飛べるのってカンナカムイだけだった、というオチだった。


 15メートルの巨体に変化したアヌビスの背中に皆がしがみつき、颯爽と砂地の大地を駆ける。砂のように見えるだけで、その物質は粒子状のセレンと呼ばれるレアメタルの化合物らしい。何でこんなものが底面に積層しているのか理由が分からないけど、何か意味があるのだろうか。
「早いとは言え、400kmもあるんじゃ時間が掛かるだろうな」
 蓮見が呟いた言葉にざっと計算してみる。400kmというのは時速400km/hで進めば1時間で到着しますよって事になるので、それを今のアヌビスのスピードに当てはめて考えればおおよその時間が割り出せる。通常のシェパードの長距離における速度が約30km/hらしいけど、アヌビスは体長約15メートルの巨体を持ち、当然その奔る速度は通常のシェパードとは比較にならない。
 アヌビスの現在の速度は約180km/hにもなり、この速度だと約2時間20分で外壁にまで到達出来る。ちなみに新幹線の東京から新神戸までの所要時間は589kmの距離に対し、約2時間48分だとか。感覚的には新幹線に乗って神戸まで行くのと同じようなもの、と考えれば分かりやすいかも知れない。
 アヌビスの体毛を掴んでるとは言え、激しく上下する背中の上で2時間以上も揺られるのは正直、かなりの体力を消耗する筈だ。そんな事を考えていると、遠方にいくつかのエネルギー反応を感知した。
「このまま真っすぐ行くと、大体10万くらいのエネルギーのヤツが何体かいるね」
 私の警告に対しカンナカムイが答える。
「それはおそらく下級悪魔だな。戦うなら負ける相手では無いが、他の仲間を呼び集めるかも知れん。迂回した方がいいだろう」
 その後同じ様に下級悪魔の存在を何度も感知するものの、迂回を繰り返す事で予定よりいくらか時間を掛けて外壁部へと到達出来た。巨大な赤い色の外壁を見渡しても、何処にも階段らしきものが見えない。
「本来は空を飛ぶ事で移動の問題を解決していた訳だからな。人間が徒歩で最上部を目指す事など、殆ど想定されていない。だから外壁に設けている階段も一つしかない。それが何処にあるのかは、外周をぐるっと回ってみて確認していくしか無いだろう』
「うげ。どんだけ時間掛かるんだよソレ」
 カンナカムイの言葉に対し、特に佐伯君が嫌そうな顔で呻く。それを横で見ていた蓮見が嫌味を返す。
「別にお前が何かする訳じゃねーだろ。実際に動いて疲れるのはアヌビスだ」
「うるせ」
 二人のやり取りを特に気にする事も無く、アヌビスはすぐに外周を走り出す。私の『心眼』で分かる範囲には階段らしきものは探知出来ず、これは相当な距離を動かなければならないと覚悟する。
「あららマズいね。今度は上からいっぱい来るよ」
 突然の私の警告にアヌビスが立ち止まる。
「上から来られては何処に移動しても丸分かり。逃げたところでまた外壁を確認しないといけないから、迎え撃つしか無いっぽいね」
「そうするしかあるまい。皆、背中から降りてくれ」
 アヌビスが姿勢を低くして皆が背中から飛び降りる。体長約15メートルに対して体高約13メートル、姿勢を伏せた状態でも約6メートルはあるので相当な高さがあるものの、瞬時に肉体を半分程縮めてくれたので苦労せずに飛び降りる事が出来た。
 空より降りて来る何者かは30体程の集団で、総じて10万程度のエネルギーの者だったけど、その中に一体だけ約500万ものエネルギーを保有している者がいる。おそらくこいつが集団のリーダーだろう。
 やがて姿を現したのは、隆々とした黒い肉体に二本角を持った動物の頭蓋骨のような頭部、手足や腹部などに硬質の外殻を纏ったような姿をしていた。背中の蝙蝠みたいな羽根で空を飛んでいるようだった。
「下級悪魔だ」
 小さな声だったけど、アヌビスの低い声が聞こえた。
 どうやらアヌビスの15メートル近い巨体を見て怯んでいるように見える。それともアヌビスの総エネルギー量3500万の前に、自分達では敵わない相手だと悟っているのか。その中から一体の悪魔が前に進み出て来た。
「ふむ、『源泉』のエネルギー変換効率が若干落ちていたので何かと思って来てみれば、彼の有名なアヌビス神にお目にかかれるとは!」
 外見は他の下級悪魔とそう変わらないものの、腰から伸びる蛇の尻尾が時折こちらを威嚇している。その悪魔に名指しされたアヌビスが返事を返す。
「そういう貴様はバティン、と言ったか。成る程、セレンの砂はエネルギー変換の為の触媒の一つか。我々が散々引っ掻き回したせいで、効率に影響を及ぼしたようだな」
 改めて足元の砂を見て、エネルギーの流れを知覚してみる。成る程、一つ一つの粒子は微弱なエネルギーしか持たないけど、全体を見渡せば膨大なエネルギーが行き交っているのが判る。どうやらこの神域の底部は、人間の魂をエネルギーに変換する場となっているようだ。
「我が名を知って頂けているとは恐悦至極。ところで我が役目はこの『源泉』の守護及び管理にあるのですが、早々にここから出て行って下さるのであれば、こちらとしても何の問題も無い訳ですが如何か?」
「それは見逃す、と言っているのか?」
「無論、侵入者の報告はさせて頂きますがね。あなた方を排除するのは私の役目では無い。お帰りはあちらへどうぞ」
 バティンはアヌビスの問いに対し、中央の『門』の方角へと指差して暗に退去を勧告してくる。これは結局、衝突は避けられないかと覚悟した途端、バティンはさらに言葉を付け足した。
「それでも先へと進むのであれば、外壁を逆時計回りに20km程行けば階段があるでしょう」
 どうやら私達とは争うつもりは無いらしく、実に易々と階段の存在を教えてくれた。
「どういうつもりだ?」
「アヌビス神と戦って無事でいられるとは思えませんのでね。我が配下30人と私のエネルギーを合わせても、合計で800万程度にしかならない。対する貴方は3500万以上だとお聞きしている。単純な力比べでは勝ち目が無いのは自明。この地獄では我々は半永久的にエネルギーを補給出来るとは言え、一瞬で消し飛ばされてしまっては意味が無い。故に、あなた方を見逃すのですよ」
 バティンの語る理由は実に理路整然としている。それを聞いていた蓮見が横やりを入れる。
「……実に尤もらしい物言いだな。こちらとしても無駄な戦いは避けられ、聞いた限りでは得になる話だけどな。しかし、だからこそ余計に怪しいとも言える」
 これは蓮見特有の悪党理論だ。悪党は悪党を知るからこそ、ウマい話には何か裏があると勘ぐる。思わぬ横やりにバティンはことさらおどけた態度を見せる。
「まさか!私があなた方を騙していると言うのですか!?ありえません!嘘偽り無い本心を語ったまでです」
 何処まで信用していいのか分からないけど、ここで時間を潰すのは得策では無い。
「チッ!追求している時間がもったいねえ。さっさと行こうぜ」
 気になるところは多々あるものの、これ以上詮索しても時間の浪費。仕方なく私達は言われた通りの場所を目指して先を急ぐ事にした。先は長いので、再びアヌビスの背に乗せてもらう。
「……ああは言ったが、どうも胡散臭い。何かあると思って警戒はした方が良さそうだぜ」
 何か感じるところがあるのだろう、蓮見は殊更警戒を促す。
 しかし当初の疑念は何処へやら、特に何事も無く約20km先の階段に到達した。
「何だこりゃあ。階段ってレベルじゃねーぞ」
 目の前の光景を見て佐伯君が眼を剥く。皆も少なからず驚いているのだけど、それだけとんでもないスケール感だった。段差の高さは普通の階段とそれほど変わらないものの、横幅から一段の長さまで、とにかく桁外れに長い。全体的には一段一段が長い、巨大な階段と言えばいいだろうか。
「緩やかに登る階段なんだろうが、先が見えないとはな。こいつを登るのは現実的じゃないだろ」
 蓮見が言う通り、この階段を徒歩で登って1km先の頭頂部に到達するには、かなりの時間を要する。階段の勾配は緩やかで、おそらく頂上まで約1万kmはある。これは例えるなら東京からフランスのマルセイユやアメリカのシカゴあたりまでの距離と同等で、これを登山の原則と言われている時速1kmで登るとするならば約10000時間、すなわち416日もの日数が掛かる事になる。ただし人間が丸一日歩き続ける事は出来ないのだから、おそらくもっと時間が掛かる。
「さっきの悪魔がすんなり通したのも頷ける。これは別の方法を考えた方がいいだろう」
 爺ちゃんの結論に皆一様に頷く。まさか何年も掛けて登るなんて、そんな悠長な事をしていられる訳が無い。
 しかし突如として巻き起こった砂嵐によって、私達は考える余裕を無くしてしまう。
「おわっ!なんだなんだ!?」
「何かが姿を現そうとしているわ!」
 眼鏡を掛けているおかげか、佐伯君と皐月さんが悪化する視界の中で何かを発見する。砂の中に集まった膨大なエネルギーが地表へと噴出し、何か巨大な存在が姿を成そうとしている。セレンの砂の中より巨大な手が突き出たかと思うと、巨大な人型が地中より這い出て来る。
 やがて砂嵐が治まると、目前には巨大な異形の姿があった。地中より上半身を露出させ、両手を地面に付けた体勢で頭部の代わりにくっ付いている黒い魔神が、凶悪な犬歯を剥き出しにしてこちらを見下ろしていた。
「まさかこのような邪魔者が侵入して来ようとはな……。おかげで不完全な形で顕現しなくてはならん。上に居座る天使共を叩き潰す前に、まずは貴様達を始末してやる!」
 奇怪な姿をした巨人だった。地中より巨大な上半身だけを現し、本来頭部がある筈の首上は、二本角と鷹のような翼を持った悪魔を中心に、七体の人間の男の上半身が同化していた。大きさは上半身だけで25メートルはある。その姿を認めたアヌビスが何かに気付いたようだ。
「お前はルシファー……いや、他にも人間が一つになっているとはどういう事だ。その巨人の体は何だ」
 悪魔達の王、堕天使の長と呼ばれるルシファー。しかしその正体は、かつてシュメールよりさらに太古の昔、神へと至る神代の超古代文明期のバビロニアに君臨した王の成れの果てであるとアカシック・レコードは記述している。そもそもバベルの塔を作り、神域同士の最適なネットワークシステムを構築しようとした神だったのだと言う。
 明けの明星と呼ばれた光の神であったが唯一神に征服され、一時期は支配下に置かれてその右腕となっていたものの、最終的には唯一神に反旗を翻してバベルの塔を取り返そうとして失敗。旧神域エ・テメン・アン・キにて再起の時を待ち続けて今に至ると、そのような経緯らしい。
 アヌビスの問いに対し、ルシファーでは無く右隣に同化している人間の男が口を開く。
「我ら七賢人の知恵と巨人族の強大な肉体がルシファーと交われば、向かうところ敵無しであろう」
「何と!?なぜ七賢人なのだ?それとも別に七賢人と呼ばれる者がいるのか?」
 アヌビスが驚いてそんな事を言うけど、男達はもう何も答えなかった。代わりにルシファーが応じる。
「いちいち敵に説明する必要など無い!天使共が降りて来る前に潰してやる!!」
 ルシファーの声と共に、巨大な右腕が後方へと大きく振り上げられる!
「マズいッ!みんな回避ッ!!」
 私は皆に警告を飛ばし、一気にその場から飛び退る。皆もそれぞれ回避行動を取り、振り下ろされた巨大な拳から逃れる。
 ズドン!!
 朦々と砂塵が広がり、豪快な地響きと大きな音がした。振り下ろされた拳は砂地に窪みを作り、拳の表面は砂との摩擦熱で煙が立ち上っている。全員無事なのはいいけど、巨人との位置関係から皆が階段に退避していた。単純に地面が固いので、砂地よりも動きやすいという理由もある。
「くそっ!さっきの悪魔が俺達を見逃した理由はこいつだったのか!!」
 散々警告をしていたのに一杯食わされたのが悔しいのか、蓮見が毒づく。
「こいつの相手より、早く上に行かないとね!」
 私は蓮見にそう応じつつも、背中に担いでいた弓袋から和弓を取り出す。先の戦いでの拾い物なんだけど、なかなかの業物なのでそのまま使わせて貰ってる。
「おらおらあッ!!」
 ガガガガガッ!!
 横にいた佐伯君がいち早く反撃を開始する。小脇に抱えた自動小銃で弾丸をバラ撒く。どうやら自衛隊などで使われている89式5.56ミリ小銃のようだ。弾丸に付与されたパイロキネシス(発火能力)による燃焼効果が、通常よりも大きなダメージを敵に与える。
 佐伯君の放った数十の弾丸が巨人の肉体のあちこちで爆発を引き起こし、僅かに巨人の動きが止まる。その隙に階段の段差を利用して、素早く弦を張る。
「邪魔だッ!!」
 身体のあちこちに僅かながらダメージを負いながら、それでもルシファーは巨腕を用いて薙ぎ払う。
「させん!イメラ・ロク・キク!!」
 バツン!!
 巨腕が振るわれる寸前、カンナカムイのサンダーストレートが炸裂、巨人の腕とぶつかり合ってお互いの威力は相殺されてしまう。佐伯君は攻撃力こそ高いものの、皆の中では一番運動能力が低い。攻撃を躱せないのであれば、このように威力を相殺するくらいしか手は無い。
「チェーダ・リンカ!!」
「シェネウ・ジェアー!!」
 スリスとアヌビスもそれぞれ攻撃に加わり、遠距離攻撃に難のある蓮見や叶さんは階段を駆け上がって上へと逃げる。
「――――――シッ!!」
 一方で爺ちゃんは刀をルシファー本体目掛けて投擲する。
「なんのッ!!」
 ルシファーが咄嗟に突き出した片手が突風を巻き起こし、飛来する刀を巻き込んであさっての方向へ逸らす。光の神だと思っていたけど、どうやら風も操れるらしい。
「喰らえッ!投球発破の術!!」
 今まで気付かなかったけど、隠形の超能力を持つ仁科さんが密かに一緒だったらしい。仁科さんは忍者みたいな格好になっていて、彼が投げつけた花火玉みたいなものがルシファーの目前で爆発し、猛烈な煙でその視界を遮った。
「うぬッ!?小癪なッ!――――――バル・ディバ・バァグ!!」
 バシュッ!!
 ルシファーが両手を突き出し、両掌が光り輝く。掌を合わせて頭上から一気に振り下ろすと、強烈な光と共に発生した振動が煙ごと空間を引き裂く。光の奔流に飲み込まれたら最後、人間の肉体など簡単に跡形も無く消滅してしまう。巨人の豪腕だけで無く、ルシファー自身の持つ光の力も厄介だ。
「うわっと!このヤロウ!!」
 カンナカムイにも防ぎきれない一撃が僅かに肩口を掠め、佐伯君は慌てて自動小銃で応戦する。しかし圧倒的な膂力を活かして肉迫して来るルシファーの前に決定打を与えられず、階段を登って後退を繰り返すしかない。
「よく考えてみたらおかしい!こいつはこの巨体で天辺まで行くつもりなのか?いくら何でも時間が掛かりすぎる。もしかして何処かに移動手段があるんじゃないのか!?」
 階段を率先して駆け登る蓮見が突然そんな事を言い出した。確かに蓮見の言う通り私達を倒して上にいるという天使を倒すのであれば、この巨体で階段を登って行くのは現実的な手段とは言い難い。
 しかしそんな時だった。
 上空より飛来する何者かがいる。凄まじいスピードで飛んで来たそいつは黄金色の三対の翼を持ち、光り輝く鎧を身に付けた、肌の浅黒い若い女性だった。
「貴様はラビエル!!」
 ルシファーの叫びが辺りに響き渡った。


第十二話・荒神復活
バティン
ルシファー
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