Sick City
第三章・魔眼支配

 用務員は大通りでタクシーを捕まえ、私達は20分近く移動する事になった。タクシーの中で私は無言に徹し、憔悴し切ってる様な演技を貫いた。その間にも用務員の手は私の髪の毛を撫で、そればかりか腰に手を回してもいた。
 明らかに卑猥な手付き。
 最早我慢の限度と痺れを切らした頃、用務員がタクシーを停めさせた。代金を支払ってタクシーを降りると、周りの景色に些か驚いた。海岸を一望出来る丘の上、夕焼けを背に立派な教会がそびえ立っていた。
「ここだよ」
 そびえ立つ教会を見詰めていると、私の視界の端に、黒い影がちらっと映った。
「……犬?」
 遠く道の脇に、犬が立っていた。
 こちらをじっと伺っているような気がする。
 遠目だったけど私は視力が並外れているので、犬種までは判った。
 どうやらシェパードの様だ。
 私の視線を感じたのか、シェパードはすぐに後ろに振り向いて歩き去って行った。何だか不自然さを感じたけど、用務員が私の肩を抱いたまま歩き始めたので、すぐに犬の事は考えなくなった。
 用務員に促されて、私達は教会の門扉を開けて中に入った。
 いくつかの木造の建物を挟む中庭があり、その正面に教会の礼拝堂がある。
 誰かいないのかと気配を探ってみたものの、礼拝堂の方に数人の気配を感じるだけだ。
 用務員は迷う事無く、礼拝堂へと私を連れて入る。
 観音開きの扉は大きく開け放たれており、何やら香の匂いが漂っていた。
 奥の壁面上部からステンドグラスを通して夕焼けの紅い光が差し込み、十字架と聖母マリア像が大きな影となってそびえ立っていた。
「神父様を呼んでくるから、そこに入って」
 用務員が指し示したのは礼拝堂の隅で、懺悔室とか呼ぶのか、ボックス型の小さなブースがあった。
 あの中に入って待ってたら、神父とやらの顔を確認出来なくなる。だけどここで不審な動きを見せるのは得策では無いと考え、大人しくブースに入って待つ事にした。
 小さな扉を開けて、少し屈んで中に入る。
 壁にソフトケースを立て掛け、腰掛けに座って足元にアローケースを置いた。
「――ふう」
 さて、一体どんな事になるやら。
 しばらくして礼拝堂全体に、コツコツと甲高い足音が響いた。
 その時点で疑念を持った。
 既に幾人かの気配を察知してあったのに、まるで何処からかいきなり沸いてきたかの様に、新たな気配が現れたのだ。今まで感知した気配は5名で、用務員を加えて6名いる筈だった。新たに出現した7人目は、存在感が大きい。
 今までに、これと似た感覚を感じた事があった。
 ウチに住み着いてるエリカさんと、皆がレラっちと呼んでる東南アジア出身だとか言う男の人、後は近頃の飛鳥ちゃん。
 鳥肌が立って冷汗が噴き出てくる。
 これが神父なのだろうけど、どう考えても普通の人間だとは思えなかった。
 扉を開ける音がして、誰かが中の椅子に腰掛けた。
 僅かな衣擦れの音がして、野太い男の声が響いた。
「――さあ、心の声を」
 それだけを言われて、私は戸惑う。
 何の前置きらしき説明も無く、いきなり話せと言われても。
 だけどここで余計な間を置けば、実は悩みなど無いのだという事が悟られてしまうかも知れない。
 覚悟を決めて、演技を続けるしか無い。
「……人間関係で悩んでいます」
 私は努めて小声でそう語った。
「ほう。誰にも悩みはあるものだ……しかし、今日は珍しい出会いになった」
 そこで私の全身に、怖気が奔った。
 悟られた!!
 そして相手は、人では無い。
 たったこれだけの会話で、こちらの真意を悟られるなんて普通では無い。どう考えても私の演技が見破られる筈は無く、顔も合わせない状況で心を読まれるなんて人間には出来ない事だ。
 私は荷物を手にして礼拝堂へと飛び出した。
「――ッ!?」
 飛び出した私の目の前に、禿頭の神父が立っていた。
 どうやら外人らしく、眼の色が灰色で、がっしりとした体格だった。顔の左半分は大きな青痣が浮いていて、左目は何だか視線の方向が右目とは違っていて不自然だった。
「まさかこんな島国で、少女の姿をした戦士と出会うとはな」
 私が戦える者だと看破された。
 やはり只者では無さそう。
 楽しげな表情で私の全身を隈無く観察する神父を前に、私は体勢を低くしてどうやって逃げようかと思案した。
 次の瞬間。
「――跪け」
 神父の無感情な声により、私の全身がビクリと痙攣した。
 お互いの目線が合った時には、既に手遅れだった。
 神父の右目から私の視神経を通して、強烈な意志が伝わってくる。何やら強烈な意志の力によって私の思考は束縛され、身体の自由が利かない。
「……戦士とは厄介なものだ。どうやら中途半端に我が視線に抵抗したようだ」
「くッ!」
 歯を食いしばり、脳髄を焼くようなおぞましい感覚に必死になって抗う。今にも跪いてしまいそうな膝に、全身全霊を傾けて力を与える。だけど、ガクガクと膝が笑って力が入らない。
「何、悪いようにはせんよ。我が支配を受け入れるがいい」
 絡みつく視線に私は抗い切れず、へなへなとその場に座り込んでしまった。
 その拍子に、アローケースとソフトケースが床に落ちてしまった。
 頭の中は真っ白になってしまい、鈍った思考の中で私は相変わらず、神父を見詰めている。
「……不十分か。ならば楔を打ち込むか……我が言葉を聞け」
 再び脳髄を焼く感覚が奔り、私は神父の声に引き込まれる。まるで耳の奥で木霊を返すように声が強調され、次にどんな言葉が出てくるのかと待ち構えているみたいだ。目の奥がチカチカとする中で、いきなり沸いてきた妙な感覚に必死に抗う。
 顔を歪めて苦しむ私を見下し、神父は怪訝な顔を見せる。
「ふむ、これでも僅かに理性が残るか。思考など必要無い。……考えるな」
 さらに脳髄が焼かれる。
 思考がズタズタに引き裂かれ、私の瞳から意志の光が失せる。
「……あ」
 神父は視線で私の脳を弄くり回す。
 一瞬にして私は白痴となり、意志を失った顔の筋肉が緩んで口元が半開きになった。
「……金原、出て来い」
 神父が呼び掛けると、礼拝堂の扉を開けて用務員が姿を現した。座り込んでまま呆けてる私を見て、用務員は下品な笑みを浮かべた。
「おやおや、こりゃ扱い易くなりましたな。この娘っ子をどうなさいますか?」
 神父は私を見詰めたまま、私に近寄ろうとした用務員を手で制した。
「この娘は戦士だ。意志は奪ったが、戦いの本能はどうにも手を付けられん。下手に触れると防衛本能が働くかも知れんぞ」
 用務員はぶるっと身体を震わせて、私を改めて観察する。
「……では神父様のお許しがあるまでは、手を出しちゃいかんって事ですか」
 それを聞いた神父は用務員を一瞥する。
「この娘は戦士だが、極上だ。お前にはいつも与えているだろう。しばらく我慢せい」
 用務員は神父に逆らう気は無いらしく、口を噤んだ。
 神父は視線で私を捕えたまま、命令を口にする。
「立て」
 その言葉に、私の身体が勝手に反応する。
 相変わらず思考を奪われているけど、こうして俯瞰で観察出来るのが不思議だった。まるで切り離された意識が、浮遊する霊魂となってしまったかのようだ。
 そんな私を満足そうに眺め、神父が用務員に注意を与える。
「しばらくはこのままにしておく。少しずつ精神支配を進め、やがては意志を元に戻しても喜んで従うように、思考を改造するのだ。それまではこの娘には手を出してはいかんぞ」
 用務員は不満げな顔だったが、すぐさま頷いた。
「判りましたよ」
「さあ、娘よ。帰って普段通りの生活をするのだ。そして毎日この時間に、ここに来るのだ」
 私は僅かに頷いて、命令に従う。
 戦う本能が残っているという神父の言葉は、無意識に私の手がアローケースとソフトケースを掴んだ事で証明された。




 用務員が呼んだタクシーに乗り、私は家に帰った。
 精神支配によって自分で物事を判断する事は出来ないものの、自然に普段通りの行動を取った。
 おそらく私の家族は全員、私の異常に気付いていただろう。それでもどういった考えの元にそうしたのか判らないけど、私に干渉しなかった。
 次の日、学校に登校した私は特に疑われる事無く、普段通りの態度を取っていた。それでも轟富士子と児島沙由里の二人は怪訝な顔を時折見せ、それとなく私に注意を払っていたみたいだった。
 放課後になり、神父の命令通りに教会へ向かおうとして廊下を歩いていた私を、蓮見が呼び止めた。
「よう。そっちはどうだったんだ?」
 今の私はその質問に対し、無難な返事を返す事を選んだ。
「神父と会ったよ。今のところはまだ何も掴んでない」
 私の口から進展の無い事を聞き、蓮見の顔が曇る。
「そうか。こっちは俺の読み通り、用務員が接触してきたぜ」
 その言葉に普段の私ならちょっとだけ驚くだろうからか、今の私も僅かに驚いてみせた。
「へえ、そうなんだ」
 だけど思考能力が殆ど無いので、素っ気無い。まるで条件反射のような受け答えに、蓮見は顔を顰めた。
「何だそりゃ。リアクション薄いねえ。それより神社の家の娘はいないか、と聞かれた」
「そうなんだ」
 またしても素っ気無い返事を返す私を、いよいよもって懐疑的に見る蓮見。
「……おいおい、頼むぜマジで。連中の目的が朧げでも判ったんだからさ。何か変なもんでも喰ったのか?」
「うん、少し具合が悪いから、これで」
 それだけを言って、私は蓮見の脇を通り過ぎる。
「……何だ、冗談で言ったのに。明日は体調整えて来いよ」
 蓮見と別れた私は用務員と合流し、昨日と同じくタクシーで教会に向かった。教会の前で昨日出会った犬を見かけたものの、今の私は何の疑問も感じなかった。
 礼拝堂に入ると神父が現れ、私は別の建物へと連れて行かれた。木造の二階建ての建物の中に入ると、いくつかの調度品が並ぶ、広い部屋に案内された。
 そこには、三人のメイドみたいな格好の外人の女が立っていた。髪形こそそれぞれ違うものの、三人が三人共同じ顔だった。
 銀色の髪の毛を初めて見た。
「神父様、その娘は?」
 メイドの一人、髪の長い女が質問した。
「私を探りに来たらしい娘なのだが、お前達にも引き合わせておいた方が良いかと思ってな」
 神父は私を見て命令をした。
「名乗れ」
「……崎守御空。桐琳学園2年」
 私が簡単に自己紹介をすると、メイド達は驚き呻いた。
「……どうした?」
 メイド女達の反応に、神父は怪訝そうな表情で尋ねる。女達はお互いに顔を見合わせた後、その中の髪の短い女が口を開いた。
「神父様、その娘は私達の敵となって戦った者の関係者のようでございます」
 もう一人、髪を両側に束ねた女も続けて口を開いた。
「思わぬところで人質を得たようです。この娘はどうか大事に扱って下さい」
 神父は何やら考え込んでいたが、少しして納得したようだった。
「ふむ。ではそうしよう。この娘の尋問をするのでお前達は礼拝堂に行っててくれ」
 メイド女達は一礼して、揃って退出した。残された神父は私に向き直り、右目で私の瞳を覗き込んだ。
「……さて、お前はどういった理由でここに来たのだ?」
 私はその質問にすんなりと白状する。
「教会が怪しい勧誘をしていると聞き、調べに来ました」
 その弁を聞いて、神父の顔は愉悦に歪む。
「我らの敵の仲間だそうだな。お前は仲間の間ではどのような役割を担っているのだ?」
 あくまで記憶を元に言わされているからか、今の私には神父の問いに対する明確な答えは無い。焼け付く脳髄が数々の断片を繋ぎ合わせる作業を実行出来ず、極めて単純な答えのみ導き出される。
「……仲間内では、ボケもツッコミも出来ます」
 一瞬、私の説明に神父の思考は凍り付いたらしい。妙な空白が部屋に沈黙を生み出し、ギスギスとした空気に包まれる。
「……面白い思考形態を持った娘だな。よかろう、質問を変える」
 どうやら冗談の通じない相手らしい。
「お前は戦士だな。では私を殺すつもりでここに来たのか?」
 それについては、至って明快な答えを持っている。
「必要であれば」
 人殺しを率先してしたい訳じゃ無いけど、相手が人では無いと確信を得た今であれば、そういったやむを得ない状況も考慮しなくてはならない。しばらく神父は私を放置したまま、何事か考え込んでいるようだった。
「……金原はいるか!」
 大きめな声で外へと呼びかけると、すぐさま用務員がやってきた。
「ご用でしょうか、神父様」
 期待感に満ちたような顔をした用務員は部屋に入るなり、私の顔をまじまじと見詰めてきた。
「どんな案配ですかい?」
「まあ急くな。急げば廃人だ。それよりも私は少し席を外す。戻ってくるまで娘から聞き出せるだけ聞き出しておけ」
「判りました」
 従順な態度で用務員は頷く。神父は再び私に視線を合わせ、脳髄を焼く命令を下す。
「娘、金原の質問には全て答えよ」
 そう告げた神父は部屋を出て行き、後には私と用務員だけが残された。好色そうな笑みを浮かべた用務員が私の背中へと周り、肩に手を置く。
「へへ、それじゃあ質問といきますか」
 荒々しい息が強烈な匂いとなって私の鼻孔を刺激し、本能的に顔を顰める。
 それでも、私の肩に置かれた手を黙って受け入れていた。だけど、私の心の奥底では違った反応が存在した。どうやら用務員の口臭に対する本能的な嫌悪感が、もっと別の、即ち危機回避本能を呼び覚ました。
 私の肩から離れようとしない用務員の右手首を取り、そのまま脇下へと潜り込んで間接の裏を取る。
「いてて! な、何だ!?」
 用務員の背後を取り、捻り上げた右腕の肘間接を左掌で押し上げて一気に足元を刈る。
 ずだん!!
 前方へ投げ飛ばされた用務員は、頭からくるりと回転し、背中から床に叩き付けられた。
「ぐえッ!!」
 そんな時だった。
 思考をズタズタにされていた私の『勘』を司る部分が、ある指示を受け取った。
 ――弦を鳴らせ、と。
 それは何とも表現し辛い現象だったけど、例えるなら『虫の報せ』とでも言うべきだろうか。
 私は肩に担いだままのソフトケースを開き、中からリカーブボウを取り出した。未だ床に仰向けに倒れて咽せている用務員を尻目に、私は弦を張るブルプッシュを行う。余計な思考が介在しない為か、今までで最も迅速に弦を張り終えた私は、左手でグリップを握った。そして右手の人差し指と親指で弦を挟み、人差し指から僅かに間隔を空けて中指も添わせる。
 弦に添わせる形で、指をつーっと奔らせる。中指で音階を決め、弦が可聴領域を超えた高周波を発生させた。
 これが『鳴弦』と呼ばれる、古来より怨霊を払う為に編み出された技だった。平安時代には宮中において、悪霊を退散する為の儀礼として行われたと言われており、その実態は二種類の効果に分かれる。
 その一つが、音波による精神への作用。幻覚や催眠術などを打ち消すのが、特定の高周波による潜在意識下への刺激なのだ。
 とは言え、誰にでも使える技では無い。
 まず常人では可聴領域を超える高周波を識別出来ないので、どうやったらその音を発生させられるかが判らない。そして人によって違った周波数を持っているので、人によって奏でる音を変えなくてはならない。耳に聞こえない音を聴き分け、さらに他人の思考パターンと脳波を感知する能力も備えていないと使えない技なのだ。
 やっとの事で立ち上がった用務員が、私の顔を見て凍り付く。
「……動いたら殺す」
 思考を奪われていた筈の私が、意志を感じさせる言葉を紡いだ。
「な――そんな馬鹿な」
 驚き慌て、目を白黒させる用務員。私は、はっきりとした思考を取り戻していた。
「散々好き放題やってくれたお礼をしなくちゃね」
 私は左側面を前面に姿勢を低く取り、右拳を固めて手の甲を顎下に引きつけて構えを取る。力を溜めた右足で大地を蹴るように、一瞬にして間合いを詰めた。
「ひいッ!?」
 右足から伸び上がるような右拳の一撃が、用務員の顔面を捉える。
 ズガン!!
 頭蓋を突き抜ける衝撃。
 拳は外へ螺旋運動を伴い、強烈な貫通力を発揮する。強烈な一撃は内部に浸透し、頭蓋骨が吸収し切れなかった衝撃が、後頭部から突き抜けて空気を振動させた。
 これぞ天仰理念流絶技・推衝拳(すいしょうけん)。
 零ちゃんは虚空拳と呼ばれる体術絶技を会得し、私は推衝拳を習った。
 意識を失った用務員は、白目になって床に崩れ落ちた。おそらく、向こう三ヶ月は病院のベッドの上から一歩も動けないだろう。
 意識を失った用務員をそのままに、私はアローケースからクイーバーを取り出して腰に下げた。中には本物の和製の矢が入っており、崎守家と古くから付き合いのある矢師が定期的に納品してくれるのだ。
 十二本の矢をクイーバーに突っ込み、周囲に人がいないか気配を探る。
「さて、あのクソ神父をとっちめてやらなくちゃ」
 どうやら神父は、誰かと一緒に礼拝堂にいるらしい。
 私は足音を殺してそろそろと壁に手を当てながら、礼拝堂を目指した。礼拝堂の扉の側面に立って中の様子を探ると、何やら話し声が聞こえてきた。私はじっとして、その会話を盗み聞きした。
「……では神父様、未だに神社を特定出来ていないのですか」
 聞こえてきた声は、どうも先程のメイド女の中の一人のようだ。
 神社だって?
 一体、何の話をしているのだろう。
「近隣のそれらしい場所は全て探らせてはいるのだ。しかし、未だに手掛かりは少ない」
 神父の声も聞き取れる。
 学校で蓮見が言っていた事を思い出す。
 桐琳学園では用務員を潜り込ませて、神社の関係者を探していたようだ。だけど何故、教会の神父なんてヤツが神社に関心があるんだろう。
 宗教の事情だろうか?
 全く判らない。
「環太平洋圏の主神は今でも生きているんです。神の住まうこの国は、未だに護られている」
「……忌忌しい話よ。我らは聖域を失い、奴らの小間使いに甘んじていると言うのにな」
 またしても、訳の判らない会話が続く。
 主神?
 聖域?
 キリスト教の聖域と言えばヴァチカンだったっけ?それともエルサレムだったっけ?
 どうも私では理解の出来ない話なので、これ以上付き合う必要も無さそうだ。私はクイーバーから矢を一本取り出し、弓に添えて扉の前に陣取った。
「楽しいお話中に申し訳無いけど、そろそろこちらの都合にも付き合ってもらいましょうか」
 突然響き渡った私の声に、中にいた四名が揃ってこちらを見た。
 神父と三名のメイド女。
 弓を構えて立ち塞がる私の姿に、神父は顔を歪めた。
「……私の精神支配から逃れたのか? 信じられん」
 どうもあの奇妙な力を破られた事が信じられないらしい。私は神父の眼を見返して、あの力が未だに作用している事を感じた。だけど、既に破った力だから影響は微塵も無い。
「本物のアーチャーに、精神系の攻撃は通用しないよ」
 私は矢で弦を鳴らしてやった。
 可聴領域を超える高周波の振動が、大気を震わせる。その音が識別出来るのか、神父は途端に合点がいったらしい表情になる。
「成程。酩酊状態のバイオリニストに稀にある現象だな。どうやら侮っていたようだ」
 メイド女の一人、髪の長い女が警戒感剥き出しの顔で私を睨む。
「崎守というのは皆、こんな異常な連中なのか?」
 どうもメイド女達は、私以外の崎守を知っているみたいだ。だけど私以外と言ってもお婆ちゃんは普通の人で、他には爺ちゃんと零ちゃんしかいない。
「もしかして、零ちゃんの事を言ってるの?」
 爺ちゃんはいつも家にいるから、外で何をしているのか判らない零ちゃんしか考えられなかった。
 そんな私の疑問の声に、髪の短いメイド女が低い声で答えた。
「……崎守零二。我らの主の敵だ」
 女の敵がいるなんて、零ちゃんは何をやってるんだろ。
 三人のメイド女はそれぞれが、腰や袖の中から武器を取り出した。髪の長い女は二対のブーメランを、髪の短い女は二対のナイフを、ツインテール女は二対のトンファーを手にする。
 神父は少し後ろへと退いて女達に命令した。
「仕方がない。殺していいぞ」
 その言葉に、私の思考が凍り付く。
 教会の神父を騙る化け物。
 簡単に人を殺していいなどと、そんな暴言を吐くなんて。
 凍り付いた思考は一瞬で、即座に覚悟を決める。
 ――こいつらは、ここで私がどうにかしなくてはならない。
 メイド女達が行動を起こそうと動き始める一瞬、私は速射体勢に入った。滑る様にバックステップしながらの速射で、真ん中の長い髪のメイド女へ矢を放つ。出足を止められた長い髪のメイド女が、左のブーメランで矢を弾き飛ばした。
 他の二人はそれぞれ、両側から突進してくる。長い髪のメイド女が、右のブーメランを投げ付けてきた。
 二本目を速射、こちら側から見て左から接近してくるトンファー女に矢が迫る。だけど常人離れの反射で、トンファーが矢を叩き落とす。
 一方で、私に向かって飛んでくるブーメラン。それを反転して躱しつつ、右から肉迫するナイフ女に向けて反転中に弓を引き絞り、正面を向いたところで速射。
 これぞ天仰理念流近接射術・弓旋風(ゆみつむじ)。
『近接射術』は『長遠射術』とは対極に位置するもので、通常の弓道には存在しない、接近戦に特化した技術を体系化した、理念流独自の弓術だ。
「くッ!?」
 ナイフ女はギリギリの見切りで矢を躱し、大きく迂回するように横へと奔る。その間にも、ブーメラン女とトンファー女が突進してくる。
 距離にして6メートル。
 この距離で相手のスピードを考えると、次の速射と同時にどちらか一方に接近を許してしまうだろう。さらに後方へ飛んでいった筈のブーメランが、後方からこちらへと戻ってきていた。
 私はクイーバーから二本の矢を取り出し、右手一つで二つの矢を、同時に弓に番えた。反転して後ろから飛んできたブーメランを蹴り飛ばし、軽く跳ねて回転着地。
「何ッ!?」
 速射で放たれる二つの矢。二人のメイド女に矢が飛ぶ。
 これぞ天仰理念流近接射術・二双射ち(にそううち)。
 まさか二本同時に矢を撃てるなどとは思っていなかったらしく、驚きに眼を見開く。
 リカーブはグリップの左上に矢をセットする為の窪みがあり、構造的には二本同時に矢を射るのは厳しい。和弓の場合はそういった窪みは無い代わりに、そのままでは弓の幅の分だけ狙いが外れるのを前提に技量でカバーする方法を取っている。
 アーチェリーでは難しい二本撃ちだけど、和弓の扱いにも慣れている私は技量でカバーする事が出来る。具体的には一本を窪みにセットし、二本目は窪みの上に宛てがって斜め方向へと飛ばすのだ。と言うか、どんなに工夫しても斜め方向にしか飛ばないんだけど。
 つまり水平に構えた事で、二本の矢を左右へ拡がる形で飛ばす。通常通りに立てて構えて射る方法だと、和弓と同じく弓の幅の分だけ照準が狂うんだけど、水平にすれば単に上方向へ僅かにずれるだけで済む。正確には二本目だけ少し上に飛んでしまうけど、あくまで接近戦なのであまり影響は無い。
 逆に言えば、この技はリカーブを使う限り接近戦限定で、遠距離では使う意味の無い技だって事。
 二人のメイド女は、こちらの狙い通りの軌道で左右に飛んだ矢に対し、常人離れした反射神経で反応する。
「ぐッ!?」
「あうッ!!」
 それでも完全回避は出来ず、ブーメラン女の右肩と、トンファー女の左太股を深く抉った。地面に転げ落ちる二人を尻目に、横合いからナイフ女が迫る。
「――限定解除ッ!!」
 その声と共に、ナイフ女の接近スピードがいきなり跳ね上がった。
「はあ!?」
 さすがに私は驚いた。
 懐に潜り込まれ、左から私の首筋を狙ったナイフが迫る。それを反転して躱すものの、さらに右からナイフが突き込まれる。
 私の左脇腹を狙うナイフの煌めき。
 躱しきれないと判断し、私は一気に飛び上がった。
 今度は、ナイフ女が驚愕する番だ。
「なッ!?」
 ナイフ女の頭上に、私の身体が滞空している。空中で屈み込むような体勢を取り、力を溜めた右足から一気に脳天目掛けて踵蹴り。
 ズドン!!
「――ぐッ!!」
 蹴りの反動を生かして、ナイフ女の後方へと着地。ナイフ女は頭頂部から血を拭き出して倒れた。
 これぞ天仰理念流絶技・踏脚(とうきゃく)。
 敵の虚を突く一撃必殺の技だけど、跳び上がる時にスカートが捲れてパンツ丸出しになってしまうのが欠点だ。
 さらに着地と同時に、連続反転運動四連射。
 天仰理念流近接射術・四ツ独楽(よつこま)。
 立ち上がって武器を構え直していた二人のメイド女は、一本の矢を叩き落とす事には成功したものの、続けて飛んできた二射目を脇腹に受けて膝から頽れた。私は矢を番えて警戒をしながらも、二人の様子に最早戦闘続行不可能であると確信した。
「驚いた? 弓で接近戦が出来るなんて思ってもいなかったでしょう」
 二人は矢によって腹を食い破られているので喋る事が出来ず、ただこちらを睨みながら呻くだけだった。
「――たいしたものよ」
 礼拝堂から聞こえてきた野太い声に、私はそちらへ矢を向ける。
 神父が悠然と外へ出てきたのだ。
 私はメイド女達の傷の具合を考えて警告した。
「早く救急車を呼びなさい」
 だがそれを、神父は笑い飛ばす。
「くくく、なんだそれは。いくら何でも彼女達に失礼だろう」
「傷を負わせておいて今更って事? でも殺すつもりは無いわよ」
 それは本心だった。
 踏脚を喰らったナイフ女は意識を失っているけど手加減しているし、腹に矢を喰らった二人も傷は深いけど、すぐに死ぬような傷では無い。
 神父はピタリと笑いを止めた。
「女戦士よ。お前はこの現代に生きているのが、間違いだったのだ」
「……何ですって?」
 その途端。
「!?」
 強烈な殺気が、神父の全身から発散される。
 膨大な力の渦が、大気を震わせて空に紫電が奔る。
 周囲の木々に止まっていた鳥達が、一斉に羽ばたいた。
 ――――激震。
 神父の左の義眼が、くるりと回転した。
「お前は甘いのだ。せっかくの技量も、我が魔眼の前には無意味よ」
 裏返った白目の中心に、炎が灯る。
 そして次の瞬間。
「人間の身で我が魔眼の洗礼を受ける、その栄誉を胸に――死ねッ!!」
 圧倒的なプレッシャーで身動きが取れない。義眼の灯火から眼を放せない。
 視線から侵攻してくる膨大な情報量を遮断出来ない。
 沸騰する脳髄。
「あああああああああああああああああッ!!」
 絶叫。
 私の意識はそこで途絶えた。


 登場人物紹介
轟 富士子
児島 佐由里
用務員
第七話・巨神幻惑
神父
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