Sick City
第四章・悪食思念

 フルールティとアガリアレプトの両者を倒したエリカと飛鳥が合流し、レラカムイとも合流して、発掘現場へと車を走らせて引き返してきた。
 悪魔達の流出は止まったものの、バールの言っていたイシュタルの思惑が真実であるならば、やはり発掘現場に異変があるだろうと考えたのだ。
「神域を現界させる一番の方法は、現実世界との繋がりを利用する事です。バベルの塔を打ち上げた場所こそ、最も適した地点かも知れません」
 エリカの説明を聞いて、教授は少しばかり考え込んだ。
「……その試みの為に、ムラサメは発掘現場を独占したかったと考えるべきかな」
 ここまで結論が出ればあの仮面の契約者がムラサメの関係者か、もしくは関係者を抱き込んでいるとの推測が成り立つ。
「……そう言えば、ムラサメの会長の息子が女連れで来ていてけしからんとか言う話があったな」
 仁科三郎のもたらしたムラサメの情報をふと思い出し、もしかするとその息子とやらがあの男なのでは無いか、とも考えられる。しかし、その息子とは専務だと言うから、年齢的に考えると随分と若い人事をしているのか、それとも全く関係無いのかのどちらかだ。それを聞いてエリカは難しい表情をしていたが、ふと思いついたかのように口を開く。
「イシュタルが契約者を選んだ過程は判りませんが、もしかすると自分の目的に一番近いと思った者を選んだのかも知れません。そしてあの契約者に力を与え、願望を叶えると約束したのでしょう」
 やがて車は油田開発現場のゲートを抜け、元の発掘現場で停車した。車を運転していたフェニックスとアルに向かって手で制すると俺の意図が判ったのか、二人はその場で待機する。だがレラカムイと棗は、憮然とした顔で歩き出した。
「もう悪魔共はいないからな。今度は俺達も行くぜ」
「うずうずしっぱなしだったんだからね〜」
 反対する理由も無い。
 教授と仁科三郎もフェニックス達に倣い、車の中に引っ込んだ。
「ご武運を」
 棗に向かって、仁科三郎が励ましの言葉を掛けた。
 発掘現場にイシュタルと契約者がいるのは『心眼』で判っていた。俺達が閑散とした広い空き地に到着するのを、二人は待っていたのだ。あのベリーダンスの衣装を纏った女神と、仮面で素性を隠している契約者がいたのは、発掘中と思わしき窪地の真ん中だった。
「あんた達がバールを倒してくれたんで助かったよ。ありがとう」
 仮面の男は、些か戯けたような口調で先に口を開いた。こちらを馬鹿にしたような台詞に、感情を逆撫でされた飛鳥が食って掛かろうとしたが、男から仮面が外された事で、面食らって言葉を呑み込んでしまった。
「もう、素性を隠しても意味は無いからさ」
 男はおそらく、俺と同年代といったところだった。幾分長めの髪をしていたが、初めて見る顔は端正に整っており、細面だが鋭い目付きをしていた。
「会長の息子の専務、ってのがお前なのか?それにしては随分と若いみたいだな」
 俺の指摘に男は少しばかり驚いたような顔をしたが、突然吹き出して笑いを堪えた。
「……ははは、正確には孫だよ。やはりスパイを潜入させてたんだな。イシュタルは親父に貼り付かせていたからね」
 どうやら、こちらのスパイ活動に対して対策をしていたらしい。こう何度も後手後手に回っていた事実からすれば、この男が持つ悪魔的な知性をイシュタルは選んだのかも知れない。エリカも俺と同様の感想を抱いたのか、目の前の男に対する嫌悪感を隠そうともせずに、厳しい表情で問い詰める。
「一体、貴方は何を求めて此程の策謀を巡らせてきたんですか? イシュタルが神の座に返り咲きたいのは判っています。しかし、貴方の動機が全く判りません」
 その問いに正直に答えるメリットなど無いだろうと思ったが、男は以外にもすんなりと口を開いた。
「――別に、大それた目的を持っている訳じゃあない」
 それから思い出したかの様に右手を胸元に添えて一礼した。
「僕の名は志方明滋(しかためいじ)。以後お見知り置きを。先程の質問に対する答えはもっと単純で明快なんだ。つまり、力に対する欲求とでも言うべきかな」
 志方と名乗る男が明かした動機が真実であるのか、『群』の認識で思考を探る。だが志方の顔が一瞬だけ歪んだかと思うと、何かノイズだらけの思考しか読み取れず、俺は断念する事にした。
「……僕の思考を読もうとしたんだろうが、そういう事はやめて欲しいね。まあ隠そうとした段階で、嘘をついてますって言ってるようなもんか」
 こちらの考えている事を先読みされ、あれこれと策を弄しても看破されるだけと気付いた。
「単刀直入にいこうか。つまり俺達はお前達を信用出来ない。こちらに秘宝がある限り、こちらをその気にさせて協力させるか、もしくは力ずくで奪うしか無いだろうからな」
 それが引き金になった。
 今まで後ろで控えめに聞き役に徹していたイシュタルが、全身から膨大なエネルギーを発散させながら、身振りで話の打ち切りを促した。
「……これ以上、話をしても無駄って事でしょう? 邪魔なバールが消えた今、ここで決着を付けてやるわ」
 イシュタルが戦いの意志を示した事で、志方は大げさに溜め息を付いた。
「やれやれ、どのみち避けられないか。しかしアレだね、そのおチビちゃんも戦うのかい?」
 チビ扱いされた棗の顔が歪む。
「ち、チビぃ〜!? あったまきたっ! やるよレラっち!!」
「あ、おい」
 レラカムイの静止を意に介さず、逆上した棗が単独で飛び出す。それこそ、志方の思う壷だと言うのに。
「あっはっは! 楽しいおチビちゃんだね! 来れッ!! ――カドゥケウス! ピナーカ!!」
 その呼び声に応えるかの如く、志方の両手に突如として膨大なエネルギーが発生し、何かの形が現れる。
 両の手に握られた、絵に描いた様な二丁拳銃。
 右の手には、無骨な銀色の大型リボルバー。
 その名はトーラス・レイジングブル。
 左の手には、黒い強化プラスチックの外装を持つフルオート機関拳銃。
 その名はグロック18。
 志方は単純に突進してくる棗に、右のレイジングブルを向ける。
「ナンタルー・クアル・イシャーツ!!」
 マズルフラッシュと共に、発射されるマグナム弾。それと同時、棗は両手から何やら円輪状の手の平サイズの武器を二つ、志方のいる前方へ投げた。
「故合って二方也!!」
 訳の判らない言葉と共に、棗は両手を打ち合わせる。その動きに連動するかの様に、二つの円輪が中央で衝突、途端に強烈な光を発した。
 ズドン!!
「何ッ!?」
 リボルバーから放たれたマグナム弾と、発光を伴った衝撃力が互いの威力を相殺し、志方と棗の間で爆発が巻き起こる。しかも、まともに光を直視してしまった為、志方は左手で顔を庇う羽目に陥ってしまった。
 あれでは、左のグロック18を撃てない。
 勝算有りと踏んだ棗が、その場から右へと跳んで志方の左側へと回り込みつつ、右手から楔状の投擲武器を投げる。
 ズガッ!
 志方の足下の地面に突き刺さった楔。それを見て、棗がにんまりと笑みを浮かべた。
「貰った! ――秘技・影封じ!!」
「なっ!?」
 己の下半身が、全く動かない事で驚愕する志方。
 この術は以前、バラムと対決した折りに使用したものだ。以前は判らなかったが、今ならばこの術の理屈が判る。
 本来、修験者とは結界や祈祷を主とする呪術を使う。その中でも『結界』とされる術体系は、道具を用いて内と外に人為的に境界を作る事で可能となる。
 基本的には注連縄(しめなわ)を用い、四方を囲む形を取る。本来は仏教から来ているらしいが、縄を使う事で縄文文化との関連もあるかも知れない。
 それが『影封じ』において、どうして影に楔を打ち込んだだけで人の動きを制限出来るのか。
 これは要するに、『光と影』の境界を利用した結界術なのだ。
 影の内側に存在する、影を作る遮蔽物。今は夜間だが、発掘現場と油田施設をいくつもの探照灯が照らしているから影は出来る。遮蔽物となる人体の神経伝達に、何らかのノイズを与えて脳からの命令を阻害する。随分と回りくどい方法論だが、回りくどいからこそ相手に見破られない。
 動きの制限された志方は、それでも反撃しようと左のグロックを棗に向ける。
「くそっ! ペルー・ウムシュ・ヌール!!」
 かけ声と共に、膨大な赤外線が銃身に向かって集まる。急激に増大した熱量によって、まるで燃え盛る炎の様に赤い光が辺りを照らす。一方の棗は、既に呪符を何枚も取り出していた。
「――激震呪法・綱玉砕ッ!!」
 スゴン!!
 突然周辺の大地が振動し、棗の目の前の地面が盛り上がる。大地から突然突き出したのは、巨大な岩石の塊であった。
 一方、志方のグロックは連続して振動を繰り返し、一気に33発もの9mmパラベラム弾を発射する。全ての弾丸が膨大な熱を帯びているにも関わらず、溶解していない。
 あれはおそらく、重金属の中でも融点が3400度と高いタングステン鋼で作られているのだろう。3000度を超える熱を孕んだ弾丸は、構造物を容易に貫通せしめる。そこに岩石の塊が置いてあったとして、ただの石では盾にもならない。
 だがしかし。
 ガガガガガッ!!
 33発の赤熱するタングステン弾は、岩石の塊に突き刺さったものの、裏側まで貫通する事が出来なかった。
「……綱玉、コランダムか!」
 コランダム、日本語では所謂、綱玉である。組成が変わる事で、ルビーやサファイアになる事で知られている鉱物だ。
 融点は2000度程。
 さすがにタングステン弾を跳ね返す事は出来なかったが、貫通は防げた。
 さらに。
 ぴしぴしと音を立て、コランダムの塊にヒビが拡がる。
 バシン!!
 強烈な破裂音と共に、コランダムの塊が粉々に砕け、志方のいる方向だけに向かって石つぶてとなって襲い掛かる。
「くそっ! 動けないっ!?」
 避けるつもりでいても、『影封じ』によって足が動かない。絶体絶命の危機に、誰もが棗の勝利を確信した、その時。
「――いつまで遊んでいるの!!」
 志方の眼前に、イシュタルが両手を拡げて割り込んだ。イシュタルの全身を常に防護する、エネルギーフィールドが大きく展開される。無数の石つぶてが、全てエネルギーフィールドによって遮られる。ばしばしと跳ね返る石つぶてを見て、棗が悔しげに呻く。
「んもうっ! 今日の為の取って置きだったのにい〜っ!!」
 悔しがる棗を見て、黙って成り行きを伺っていたエリカがぽつりと一言漏らす。
「……何だか、以前とは見違えましたね」
 隣の飛鳥が呆然とした表情で、首をぶんぶんと縦に振る。
「う、うんうん。意外って言うか、単なる役立たずじゃ無かったんだ〜」
「……酷い言いようだな」
 まあ、言いたい事は判らなくも無い。
 バラムと戦った時と比べ、明らかに判断も早ければ、術の威力も強い。さすがに10歳のお子様、少しの時間で大した成長ぶりだ。
 一方の志方にしてみれば、相手は何かの能力を持っているとしても、ただのチビ程度にしか考えていなかった。それが意外な善戦を見せ、逆に追い込まれるとは思ってもいなかったのだろう。
 悔しげな顔から、それが判る。
「……全く、世の中ってのは上手く回ってはくれないもんだね」
 相対する棗は、不可思議な発言に首を傾げる。
「……何言ってんの?」
 途端、大声で笑い出す志方。
「あっはっは! 神が三名、能力者が二名、これと戦えってんだから勘定が合わないって!!」
 確かに数の面から考えれば、志方とイシュタルの二人だけでは分が悪い。俺と棗で戦えば志方を倒す事は十分に可能だろうし、エリカと飛鳥、それにレラカムイの三人ならばイシュタルに勝てるだろう。
 前回の戦いではエリカは万全の状態では無かったが、今ならエリカだけでも互角に渡り合えるかも知れない。それが空戦能力の高い飛鳥と、格闘能力の高いレラカムイが加わるのであれば隙は無いも同然だ。
 棗の前に立ち塞がっていたイシュタルが、背後の志方に呼び掛ける。
「さて、これからどうするのかしら!?」
 当の志方は幾分考えを巡らせる様な空白を置いた後、吹っ切れた様に口を開く。
「イシュタル。バベルの塔を起動させろ」
 その無謀極まりない命令にイシュタルは何か反論しようとしたが、何か思い直した様な間を空けて口を開いた。
「……私は気に食わないけどね。あいつを頼るのは」
 何を言っているのか訳が判らないが、兎も角このまま見過ごす訳にはいかない。
「やらせる訳にはいかない!!」
 イシュタル目掛けて駆け出す俺を見て、他の四名もアクションを起こす。
「今こそ、約束を果たす時だぞ!!」
 割れんばかりの大声で、志方が何者かに呼び掛ける。一体誰に対してだろうと疑問に思った瞬間、さらに大地が揺さぶられた。
「うわっ、またぁ!? いい加減にしろっての!!」
 立て続けに起こる異変に再び身体を翻弄され、棗が地面に尻餅を付いて悪態を吐く。地中から沸き上がる膨大なエネルギーが、何者かの出現を予感させる。そして地中より飛び出した無数の鎖。
「……これはッ!?」
「まさか!?」
 エリカと飛鳥が共に、驚きに目を見開く。皆が無数の鎖を防ぎ、或は回避する中で、一人の男が地中から現れ出でた。その姿を見た飛鳥が、呆然として声を漏らす。
「……そんな、確かに倒した筈なのに、どうして」
 そして、その男の顔を見たエリカが怒りを露に、喉奥から振り絞るような声を上げた。
「――ロキ!!」
 飛鳥が倒した筈の、北欧の奸智の神がそこにいた。
「久しいな、レギンレイヴよ。そして貴様に殺された覚えは確かにあるぞ、セイレーン」
 総エネルギー量、一億の脅威。
 そのロキを呼び出した志方が、苦々しげに声を掛ける。
「約束の時間だぞ、ロキ。喰らう獲物が多くて嬉しいか?」
 ロキは不敵な笑みを浮かべて返答を返す。
「ははは、この不信心者め。天使共をただの贄と扱う我らは、さながら人類の敵と言えよう」
「獲物だと!? 天使を喰らうとは、どういう事だ!!」
 俺の声に、ロキが笑い顔で応じる。
「ふふふ、今に判る」
 グレイプニルの攻撃で足止めされている俺達を尻目に、イシュタルはバベルの塔を呼び出す為の手順を実行していく。イシュタルは両手を頭上で交差し、何やら踊りを踊るかの様な複雑な動きをした途端、膨大なエネルギーが発生した。突如、空間に激震が奔り、暴風が荒れ狂う。
「うわわ」
 体重の軽い棗の身体が浮き、それをグレイプニルを弾き飛ばしながら側まで駆け寄ったレラカムイが己に引き寄せる。
 イシュタルの手がさらに動くと、中空に二つの浮遊物体が出現する。
 遠隔レーザー兵器シタ。
 そして荷電粒子砲ミトゥム。
 直径10キロに及ぶバベルの塔の基底部とされる六つの基礎らしき石組みの上に、シタの六つの浮遊物体がレーザーを照射した。
 ズゴン!!
 石組みがエネルギーを吸収し続けた結果、増幅された重力が異空間への干渉を引き起し、バベルの塔を現世へと誘導する。そして遺跡の中心に穿たれた円形の窪み目掛け、イシュタルのもう一つの武器であるミトゥムから荷電粒子ビームが照射された。
 地鳴りと共に窪地の中から、数十本の石塔が突き出る。
 膨大なエネルギーを与えられた石塔は付与されたプログラムを発動させ、突如として天空目掛けて暴風が発生した。やがて暴風の中心に、黄金色に輝く円柱の塔が出現した。
「なんて大きさしてんのよ……」
 呆れた様な飛鳥の語調はワルハラやオリンポスに比べて、明確な違いを見て取ったからだろう。
 まず、その巨大な威容に圧倒される。
 ワルハラやオリンポスは全長が約10km程だが、バベルの塔は約50km、大気圏の中間圏まで到達してしまう。これ程の巨大さだと肉眼ではその全容を把握するのは不可能であり、塔の上部は霞んで見えない。
「あっ! ――あれ見て!!」
 飛鳥が何かに気付いたらしく、俺達に注意を促す。注意深く観察すれば、塔の外周に無数の光点が煌めいているのが判る。
「さあ、天使共の復活だぞ」
 志方の声が響き渡る。
 煌めく光点は次第に輝きを増し、異界からの干渉を受けて実体化を果たそうとしている。かつてこれ程のエネルギーが、一所に集束する事などあっただろうか。莫大なエネルギーの流入によって地球環境に与える影響を考えた場合、まずは磁気嵐による電子機器への甚大な被害が考えられた。
 そんな呑気とも取れる考えに気を取られている内に、輝く光点は何万もの天使となってバベルの塔の外周に出現していた。
「はっはっは! ゴミ風情が何万匹現れようと、このロキの敵では無いわ!!」
 地面より現れた無数の鎖が天へと駆け上り、出現したばかりの天使達に絡み付いた。鎖から拡がった錆色は天使達の身体を侵食し、たちまち分解してしまう。数多の天使達が光を放って霧散していく中、鎖を避けつつこちらに接近してくる者がいる。
「――おのれ、邪悪めッ!!」
 突如、無数の光の矢が空より飛来。
 だがロキが右手を付き出し、地面より分厚い鋼鉄の壁が出現、光の矢は壁に阻まれてしまう。役目を終えた壁が霧散すると、ロキに対峙する天使の姿があった。
 その姿は見覚えがあった。
 浅黒い肌をした若い女だった。
 光り輝く白の鎧と、三対の黄金の翼。
「――ラビエル!?」
 同じく、見覚えがある筈の飛鳥が声を上げた。
 ラビエルと呼ばれる、四大天使の一角。かつてセイレーンを追跡し、レラカムイによって追い返された過去があった。棗の隣で冷静に状況を見ていたレラカムイは、感心したような顔をしていた。
「……ほう、あいつは会った事があるな。お前さんのお友達じゃなかったか?」
 話を振られた飛鳥は、嫌そうな顔をした。
「……違うわ。しかし、相変わらずの直情単細胞正義感丸出しね」
 声質が低いので、おそらくはツバサの声だった。
 時々、別人格になるので困る。
 そんな二人には気付かないのか、ラビエルはロキに対して再度攻撃を仕掛ける。三対の翼の内の二対が黄金に輝く腕へと変質し、それぞれの掌から光輪が放たれる。ロキは悠然とした態度を崩さぬまま、軽く手を振ると光輪が爆砕した。
「……つまらん。リーダー格の貴様だけはこうして我が前にいるが、他の天使達は我がグレイプニルに歯が立たん。天国にて眠る、他の3人の大天使達の軍団も後に控えている事だし、早々に決着を付けてやろう」
 バベルの塔外周にて、グレイプニルの怒濤の攻撃に阻まれている何万もの天使達。おそらくロキの能力の特性を考えると、単体攻撃よりも軍勢を相手にする方が得意なのだろう。
「さて、こうなっては巻き込まれない内に一旦出直した方が良さそうだ。行くぞ、イシュタル」
 ロキとラビエルの戦いには関心が無いのか、志方は隣のイシュタルに撤退を告げる。二人が退場しようとしているのを見て、エリカが飛び出す。
「待てッ!!」
 それを見て飛鳥とレラカムイが低空で飛び、俺は居合の体勢のまま間合いを詰める。だが、イシュタルの滅殺兵器、ミトゥムとシタが放った光線に、俺達は進行を止められてしまう。
「後はよろしく、ロキ」
 一言声を掛けてイシュタルと志方は、紫色に揺らめく空間の扉へと姿を消した。一方、ラビエルの召喚した巨大な炎の剣を弾き返したロキは、イシュタルの言葉に不快感を露にしていた。
「……全く、この私に尻拭いをさせるとは気に入らんな――では、最後の仕上げと行こうか!!」
 ロキは頭上に向けて左手を突き上げ、その手から天に向けて、何かが射出された。
「……何だ?」
 炎の剣でロキと対峙していたラビエルが、怪訝な顔でそれを見上げる。
 天空へと飛び出したのは――金色の杯だった。
 くるくると回転して中空に滞空したそれは、いきなりピタリと停止した。
 ラビエルの表情が凍り付く。
「……まさか、聖杯か!?」
 聖杯。
 キリストが最後の晩餐で用いたとされる、聖なる杯として知られる伝説の聖遺物。
 だが、それが真実なのかは疑問だ。
『心眼』によって感じるのは、杯の中の無秩序な程の荒れ狂うエネルギーの坩堝。周囲に紫電を撒き散らし、何人かの天使達が巻き込まれて消滅した。
 そして次の瞬間、信じられない事が起きた。
「――な」
 上空で起こった超常現象に、俺は呻くしかなかった。圧倒的な威容を誇るバベルの塔に向かい合う、直径1000メートルはあろうかという巨大な杯。まるでコマ落としの映像表現の様に、唐突に巨大化した聖杯。
 驚き眼を見開くのは俺だけでは無い。
 神ですら、理解を超える現象だったのだ。
「……そんな莫迦な」
 攻撃を忘れ、呆然と空を見上げるラビエル。ロキは邪悪に染まった顔でラビエルに告げる。
「お前達は聖杯を用い、一体、どれだけの勢力を排除してきたのだったかな。だが教えてやろう。聖杯と呼ばれていたモノは『器の神』という、外宇宙から飛来した邪神なのだ」
 器の神。
 それは今まで正体不明とされてきた地球の神々の敵であり、かつて数々の文明と神々を滅ぼしてきた脅威だ。圧倒的な質量を内面に抱えた杯の口の中は、一つの宇宙でもある。
 地球上に現れては消えた数多の神々など比べ物にならない程の圧倒的な力を有していながら、知能を持たない。
 あるのはただ一つ、強烈な程貪欲な『食欲』だけである。
 桁外れの思考力を地上へ撒き散らし、中近東に住まう多くの人々が発狂死したと後に知った。
「――ぐッ!?」
「な、何これ」
「まずい――見るな棗!!」
「……うえ?」
 強力な自我を持つ神ですら、『器の神』が放つ『食欲』に怯んだ。精神を掻き乱されて集中を欠いたエリカと飛鳥、一方で精神的影響を最も受ける筈の棗を、咄嗟の判断でオムケカムイで包み込んで外界から遮断して、間一髪で護るレラカムイ。俺は丘の下で待機している仲間達を『心眼』で認識し、彼らの精神を保護する為に『群の認識』によって思考の共感を行う。
 そして始まる――
 物理的な現象を超える『概念』がもたらす、悪食の具現。
 バベルの塔の周辺でグレイプニルの攻撃に晒されていた天使達の軍団は、いきなり圧縮されて血の滴る肉塊に変貌を遂げ、湯気を上げながらびくびくと震えた。脈動を続けながら『器の神』の『混沌』という『概念』の影響によって意志を剥奪され、ただの肉とエネルギーの塊にされてしまった天使だったモノ達。かつての同胞達の変わり果てた姿を見て、たった一人残されたラビエルは、頭を抱えて恐慌に陥った。
「あ――あああああああああああああッ!!」
 中には力ある存在もいただろうに、それでも何ら抵抗する暇も無く食用に供されてしまった天使達の末路を考えるに、神ですらあの『概念』の前には無力なのだろうかと強烈な不安を感じる。
 恐慌に震えていたラビエルの口から、さらに言葉が漏れ出る。
「そうだ、アレこそが主神を滅ぼした恐怖だ!!」
 それは一体、どういう事なのか。
 ラビエルの言葉に気を取られている間に、空では吸引が始まった。
 肉の塊が、杯の中へと消えていく。
 杯の口が向いた方向との角度の問題なのか、俺達は何ら影響を受ける事は無く、ただ経過を見守る事しか出来なかった。
 全ての肉を喰らい、一瞬だけ杯の全容がぶるっと震えたかと思うと、唐突に元の手に納まる大きさへと変わっていた。
 ゆっくりと落下してくる聖杯を、ロキの手が掴んだ。黄金に輝くゴブレットを懐にしまい込んだロキが、力無くうな垂れるラビエルを無視して立ち去ろうとする。
 誰一人として動けぬ中、俺だけがロキの行く手を阻んだ。
「……ほう、神ですら我を失う中で、人間であるお前だけがまともな思考を保っているとはな」
 先程まで邪悪に染まっていたロキの顔は、俺を見て素直な感嘆の表情を浮かべていた。俺は居合の構えを維持したままで口を開く。
「お前は神を裏切るだけで無く、この星すら裏切ったのか」
 しかしロキはその問いに答える事は無く、ただ俺の左手に握られ鞘に収まる『一徹』を見て何かを悟った風であった。
「……成程、どうやらそういう運命らしいが、何とも厄介な事だ」
「……?」
 訳の判らない物言いが、妙に気になった。しかし、訝しむ俺の様子など気にしていないのか、無防備に歩き出す。こちらの間合いに入ろうかとした所で、こちらが攻撃の意志を持っていると感じたのか、手で俺を制する。
「まあ待て。今は我らが衝突する時期では無い」
 俺はロキの言い分が理解出来なかったが、頭の奥底に突如として鳴り響いた警告の予感に身を飛び退かせた。こちらの過剰にも見える反応をどう思ったのかは判らないが、ロキは満足そうな顔で再び歩き出した。立ち去るロキは俺に背中を晒しながら、最後に一言だけ呟いた。
「――時に、想定外の出来事が起こるものだな」
 それが意味するところを想像出来ず、俺はただロキの後ろ姿を睨み付けるだけだった。


 登場人物紹介
アル
フェニックス
仁科 三郎
南 一郎
第六話・魔神騒乱
ラビエル
志方 明滋
器の神
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