Sick City
第四章・夢幻回想

 巨大な狼が、その大きな口を開いて喋る。
「――これぞ我が化身の一つ、『灰色狼の霊』フェンリルよ」
 その名は有名なので、俺でも知っている。
 北欧神話における最終戦争の引き金を引いたとされる、神喰らいの魔獣。伝承によれば、ロキが産み落としたとされているが、化身と言うのだから真実は若干違うのだろう。
 飛鳥が『九十九鳥の霊』を憑依させた神であるならば、ロキは『灰色狼の霊』をその身に憑依させた神である。神話ではロキの出生は、巨人族とアース神族との混血であるとされている。しかし巨人族が、第一世代なり第二世代の神族であるとすればどうだろう。
「……セイレーンやミノタウロスと同類なのか?」
 出自こそ違えど、成り立ちは似たようなものなのだろうか。
 そこら辺の話になると、人間である俺には理解が難しい。しかし、俺の声が聞こえたのか、ロキは得意げに説明する。
「察しが良いな。私は第三世代のアース神族よりも前の、古い神族だ。但し、セイレーンやミノタウロスの様な特定の動物霊だけを憑依させている訳では無い」
 それは飛鳥にとって、聞き捨てならない言葉を含んでいた。
「……随分と反則技じゃない。複数の動物霊を憑依させている、とでも言う訳?」
 狼は嗤う。
「ははは、まさにその通りよ。『山犬の霊』ガルム、『海蛇の霊』ヨルムンガンド。そして……『幻想種の霊』ファフニール……全ては我が化身。そしてそれこそが、同時に滅殺兵器でもある」
 俺はその説明に、ミノタウロスの角を思い出す。
「……ミノタウロスも、『水牛の霊』の象徴の角が滅殺兵器みたいなもんだったな」
 そこで飛鳥――セイレーンも象徴があって、ラビュリントスとは別の滅殺兵器を保有している可能性に思い至る。もしも『動物霊』それ自体が滅殺兵器としての側面を持っているとすれば、セイレーンも存在自体が、滅殺兵器としての側面を持っている筈だろう。
 そして、ロキにもそれは判っているのだ。
「セイレーンよ。貴様も動物霊を憑依させた存在ならば、当然、独自の滅殺能力を保有している筈だ」
 ロキの言葉に飛鳥は押し黙る。
 己の力を易々と明かす訳にはいかないと、警戒している事が判る。ロキはそんな態度を意に介さずに、話を続ける。
「……お互い、小技の応酬には飽き飽きしたところだろう。ならばお互い、『動物霊』の滅殺能力で力比べといこうでは無いか」
 成程、とでも納得しろと言うのか。
 しかし俺は、それも罠であると感じた。
「詐欺もいい加減にしたらどうだ、ロキ」
 怒りを押し殺した俺の声に、ロキの眼が悪意に染まる。
「……貴様、またも邪魔をするか。やはり貴様が、この騒乱における最大の邪魔者よ。貴様の介入が無ければ、私の計画はすんなり進むというのに。ミノタウロスは貴様に固執し、悪魔共は警戒して積極策を捨てた。おまけにセイレーンとオリンポスの復活だ。全く、忌忌しい」
 そんな恨み言を口にしたが、飛鳥は俺の言葉に訝しげな反応をする。
「……詐欺ってどういう事? あたしが滅殺能力を使うとして、どういう罠なの?」
「ロキの『動物霊』は複数。つまりフェンリルを破られてもガルム、ヨルムンガンド、ファフニールと三つの滅殺能力を温存しているという事になる。グレイプニルを含めて、最低でも五つの滅殺能力を保有している筈だ」
 俺の指摘が図星だったのか、ロキは明らかに動揺を見せた。狼なので舌打ちこそ無かったが、その眼が俺から逸らされ何も無い空間を見ていた。
 飛鳥は俺の説明に、感心したような顔で応える。
「……普段の零二はずっと惚けていたんだね。何よ、今のアンタが一番アンタらしいんじゃないの?」
 よく判らない言い分だったが、飛鳥は少し頬を膨らませていた。
「……何の話だ?」
 俺達の会話など興味は無いロキは、隠しても無駄と悟ったのか、声を上げて嗤う。
「ははは! そこまで看破されてしまうとは、私の口数の多さが仇になったか。しかし、それが判ったからと言って状況が好転する訳でもあるまい? どちらにせよ、私のやる事に変更は無い。セイレーンの選択肢は戦うか、逃げるかしか無い。もし逃げるならば、私には追い付ける自信は無いがね」
 逃げるならば追い付けないだろう、と何の臆面も無くロキは白状する。それはフェンリルの滅殺能力への自信なのか、後に控える三つの能力からくる余裕なのか。
 だが、ロキの言い分は尤もな話で、確かに飛鳥には戦うか逃げるか、その二つしか選択肢は無い。
 しかし、飛鳥は、俺の顔を見て柔らかな笑みを浮かべた。
「……思い違いをしているわね、ロキ」
「――何?」
 飛鳥の言葉が予想外だったのか、ロキの余裕が消える。
「あたしの滅殺能力があと一つしか無いと、誰が言ったの? それにあたしが倒れても、後に控える零二は戦い易くなるのよ。何も怖いとは思わないわ」
 飛鳥の眼を見れば、そこには俺に対する信頼が見て取れた。
 切り札を温存していたのは飛鳥も同じ、そして足らなければ、後には俺という滅殺兵器が存在する。
 そこで初めて、飛鳥が俺を差し置いて先陣を切った理由が判った。
 つまり、飛鳥は俺の為に捨て石となる覚悟で戦っているのか。
 先程、飛鳥は女の意地と言った。
 それは、俺には理解出来ない感情だろう。
 ならば俺に出来るのは、その意地とやらを最後まで見届けてやる事だ。
「……いいさ。飛鳥――最後までやり通してみせろよ」
 俺の言葉は、何気ないものだったかも知れない。しかし、飛鳥にとっては重要な意味を持つのか、軽く頷きを返して自信たっぷりな顔でロキを見る。
「行くわよ、ロキ!!」
 大きく翼を拡げ、天空高く上昇するセイレーン達。背中から無数の羽毛を飛散させ、三つの身体が絡み合うように螺旋を描く。重なり合った三人の姿が一つになり、高高度からロキに狙いを定める。
「良い覚悟だ、セイレーン!!」
 対するロキは、大きな顎門を開いて上空を見上げる。
 しかし、飛鳥は滞空したまま動きを見せない。空を埋め尽くすような無数の羽毛が、きらきらと月光を反射しているだけだ。
「かつて百の神を喰らい殺した、フェンリルの力を思い知るがいい! 受けてみよッ!! ――ヴァナルガンド!!」
 膨大なエネルギーがフェンリルの口に集束し、超高熱を発生させる。灰色の狼の毛皮が赤熱し、全身が赤い光に包まれた。
 ――ウォオオオオオオオオオオオオオオン!!
 大気を震わせる遠吠えと共に、超高熱のパルスが上空へ向けて大気振動を発生させる。爆炎が口元から横へと円状に拡がった後、空を焼き尽くすべく、熱核エネルギーが超高熱で空間を焦熱地獄と化す。滅殺プログラムを含んだ熱放射は、まさに核ミサイルと同等の威力。
 そこで初めて、飛鳥が動いた。
「空を統べるセイレーンの力は、こんな時の為にあるのよ! ――エレオス・ポース・プテロンッ!!」
 拡げた両翼が、微震動している。
 膨大なエネルギーを消耗してまで放つ攻撃にしては、随分と小さな動きだと思った瞬間。
 突然、空を埋め尽くさんとした熱風が消滅した。
「――何ッ!?」
 驚くロキはさらに力を込めるが、口元からパルスが拡がるだけで核爆発が起こらない。
 きらきらと空を舞う小さな羽毛が振動していた。
 それは互いに共振を起こし、空間全体をさざ波のように伝わっていた。
 そして突然、空間が歪曲する。
 空の全てが、何枚ものスライドによって分裂したかの様に実像を分散させ、さらに歪んで飛鳥の姿が何百と増える。フェンリルの口から放射されている膨大なエネルギーは、核の誘爆を発生させる事が出来ずに霧散していく。
 俺は『心眼』で、真実を見る。
「……空間歪曲で、核エネルギーを中和してるのか?」
 それはまさに、浄化の力だった。
 もしもこの国に核危機が起きたとしても、飛鳥の能力は、その全てを浄化するだろう。
 何せ、空の全てが歪曲してしまっているのだ。
 俺の声が聞こえたのか、フェンリルは口を開けたままで声を発した。
「浄化能力だとおッ!? これの何処が滅殺能力だと言うのだ!!」
 その通りだ。
 確かにとんでもない力だったが、これでどうやって神を殺すと言うのか。
 何処からともなく、飛鳥の声が響き渡る。
「甘いわねロキ! 浄化するのは熱波だけでは無いわ!!」
 その声と共に、空間歪曲はさらなる変化をもたらす。高みにおいて発生していた空間歪曲現象が、徐々に効果範囲を低空へと拡げていく。
 もしも相手がエリカならば、タオゼントヤーレ・シュぺーア(千年槍)による空間攻撃で歪曲現象を破る事も出来ただろう。
 しかし、熱核エネルギーを封じられたフェンリルにその能力は無い。つまり、このまま空間歪曲がフェンリルのいる低空を包めば、フェンリルの保有エネルギー自体を霧散させてしまう。空間の浄化、それはまさにエネルギーの浄化でもあり、神を滅殺する力へと繋がる。
「ならば、次の手を使うまでよッ!!」
 突然の状況変化に、ロキは対応を変える事で応じるらしい。
 フェンリルの肉体がぼこぼこと音を立てつつ、劇的な変化を遂げる。
 恐竜のような肉体、頭部から生えるいくつもの角、背中から拡がる巨大な蝙蝠の如き翼。
 そこにいたのは――巨大な竜だった。
 幻想の中の存在とされた、実在しない筈の怪物。
 そんな伝説の化け物の姿は、今更説明する必要は無いだろう。
 ――ギジャアアアアアアアアアアア!!
 形容し難い咆哮に、大地が揺れる。
 今頃は街中では大騒ぎだろうな、などと場違いな感想を抱く。
 かつて英雄シグルドに倒されたとされる、ファフニールの姿となったロキが叫ぶ。
「幻想の存在であるファフニールの力は、一味違うぞッ!!」
 突然、周囲の景観が一変する。
 ファフニールの全身の鱗が明滅し、虹色の光を周囲に放射して空を照らす。
「……何をしようというの?」
 戸惑いの声を響かせた飛鳥の疑問は、すぐに解消される。辺りはすっかり虹色の空に変容し、大地は荒れ果てた荒野になっていた。
「……何処だここは」
 どうやら異次元空間に引き込まれたらしく、まるで現実感の無い景色だった。
 驚く俺にロキは嗤う。
「ははは。幻想の力、これこそが夢現の存在である竜の能力よ」
 訳の判らない説明に、飛鳥が俺の側に降り立って口を開いた。
「……異次元空間を創造したのよ。空間全部を取っ換えられたら、空間歪曲も一からやり直しになっちゃう」
 その説明にロキが応える。
「それならば、こちらも一から空間を作り直すまで。貴様の力もファフニールの前では無意味だ」
 それはつまり、結局は力比べに戻るだけになる。
 保有エネルギーの劣る飛鳥にすれば、力を封じられたも同じだ。
「これでこちらの滅殺能力は後三つ。貴様は後があるのか……まあこちらには関係無いがね」
 通常考えるならば、『九十九鳥の霊』だけの飛鳥に、これ以上の滅殺能力は無い筈。
「さあ、ファフニールの滅殺能力を受けるがいい!!」
 竜が巨躯を揺さぶり、背中の翼を拡げる。
 対する飛鳥は再び三人へと別れ、ファフニールを囲むように散開した。
 膨大なエネルギーを両者が集束させ、大気に振動が奔る。
「……夢現の中で死ねッ! ファンタズィーエン・エアインネルング!!」
 ――ギジャアアアアアアアアアアア!!
 突如、ファフニールの全身の鱗から粒子状の光がきらきらと周囲に拡散したかと思うと、虹色の空が暗転する。黒く塗りつぶされた空の一点に、いきなりぽっかりと穴が開いたかの様にして、映像スクリーンのようなものが現れる。
 そこに現れたのは、深海に潜るクジラの姿だった。
「……あれは、今日観た映画じゃないか!?」
 俺は飛鳥と二人で観た、ドキュメンタリー映画を思い出した。何でそんなものがこの場に現れるのか、ロキの意図がまるで判らない。飛鳥も何が起こったのか判らず、動きを止めていた。
 ファフニールは嗤う。
「ははは。貴様の中の鮮烈に記憶された、記憶の中から呼び起こした映像……これが貴様を苦しめるのだッ!!」
 そして次の瞬間――ゴボゴボと気泡が口元より上に向かっていく。
「ッ!?」
 一瞬、身体を包む冷たさに何が起こったのかと周囲を見回す。
 そこは、深海だった。
 暗く深い海の中で、俺と飛鳥は身体を漂わせていた。
 だが何故か、呼吸は出来る。
 それにどのくらいの深さかは知らないが、深海ともなれば水圧が身体にかかる筈だったが、それも無い。
 その時、遥か上から、何かがこちらへ接近してきた。
 それは、巨大な身体を持ったマッコウクジラであった。
 俺や飛鳥を通り過ぎ、さらに下へと潜っていく。呆気に取られる中で、やはり俺達と同様に海中に漂うファフニールから、海中でありながら声が聞こえた。
「どうやら、お前には中途半端な効果しか無いようだ……しかしセイレーン、貴様は苦しいだろう!!」
 その声に飛鳥を見る。
 するとどうした事か、三人の飛鳥達は身体を震わせて、苦しげな表情をしていた。
「ぐッ……これはッ!?」
 海中にいながらも、普通に声が届く。
 それよりも、どうして飛鳥が苦しんでいるのか判らない。
 ファフニールがそんな飛鳥を見て、得意げに語り出す。
「これも幻想種であるからこその能力よ。神の持つ力を混乱させて、現実に暴走させるプログラム……これぞファフニール最大の技、『変質能力殺し』だ」
 その言葉で、俺の理解も及ぶ。
 ――変質能力殺し。その名も『ファンタズィーエン・エアインネルング(夢幻回想)』。それは、物質を構成する情報を改変して変質させる力の原理を、逆手に取った能力だ。
 変質を可能とするのは神の持つ精密な記憶力であり、物質を構成する情報を、全て読み取るからこそだ。つまり、見たものを生み出すその能力は、無制限に行われると多大な負荷を強いる結果となる。
「貴様の記憶を引き出し、消耗を促す……しかし、この力はそれだけには留まらん。神を構成する最大の要因は、肥大した『個』にある。それを滅殺するには、個性を形成する、本人の最も大事な記憶を破壊し尽す事なのだ!!」
 それが夢現の力なのか、確かに夢や幻とは記憶に直結したものだから、理屈は判らなくもない。
 再び竜の鱗より細かな光が煌めき、周囲の光景が一変する。
「……今度は何だ?」
 ファフニールの姿は消えていた。
 いきなり周囲に何人もの学生が現れ、ざわつく教室に俺は立っていた。
 それは、朝のホームルーム前の教室の景色だった。
 教室の一番後ろに立っている俺に、誰も意識を向けた者はいない。
 これは飛鳥の記憶の具現化なのだから、それも当然か。
 しかし一体、何時の頃の記憶なのか。
 突然がたんと大きな音がして、クラスメイト達が一斉にある一点に視線を集中させた。そこには数人の仲間を引き連れた飛鳥と、床に四つん這いになった少女の姿があった。
「……あれは、楯山静だ」
 少女の名を思い出す。
 かつて飛鳥が荒れていた頃、飛鳥を中心としたグループから、集中的にイジメを受けていたクラスメイトだった。
 黒髪を後ろで束ね、比較的地味な印象ではあるものの、色白でいかにも大和撫子と言った印象の、綺麗な少女だ。しかし生来のものなのか、何故か幸薄そうな印象も漂わせている。それが原因という訳では無いだろうが、確かにイジメの対象としては、格好の餌食となりそうな雰囲気を持っていた。
 顔面蒼白となっておろおろと、床に散らばった教科書や筆記用具を、必死に掻き集める楯山。それを見下す様な視線で見下し、飛鳥は口元を歪ませていた。
「あ、ごめん楯山〜」
 ぱきっ、と何かが割れるような音がした。
 見れば飛鳥の足が、一本のシャープペンシルを踏み付けていた。それを悲しげな顔で見た楯山の眼は暗く、虚ろであった。
「…………」
 この事件は俺も知っている。
 既に、かなりの期間に渡って苛烈なイジメにあっていた楯山の、最後の登校日。周りにクラスメイト達がいる為か、この段階ではたいしたイジメでは無いように見える。しかし、度重なるイジメによって、楯山の心はバラバラに砕ける寸前であったのだろう。
 さらに、楯山の後ろへとわざわざ周りこんだグループの中の一人の少女が、四つん這いの楯山の背後からわざとぶつかった。
「あッ!?」
 尻を足で蹴られ、顔から机の足に激しくぶつかってしまう。それを蹴った本人が、忌忌しそうに見下しながら口を開く。
「ちょっと! デカ尻邪魔!!」
 それを聞いたクラスメイトの誰かが笑う。
 イジメにおいて、肉体的な部分をあげつらう様な事を言うのは、かなり効果的だろう。
「…………」
 呻く事も出来ない楯山だが、クラスメイトは誰一人として構おうとはしなかった。
 しかしそんな時、教室の前の入り口から俺が入ってきた。
 あれはやはり、飛鳥の記憶の中の俺なのだろう。
 俺は自分の席へと向かうのだが、ちょうど楯山の座り込んでいる場所を通らなくてはならない。迂回すればいいのだろうが、そろそろホームルーム開始の時間だったので少し急いでいた。
 四つん這いの楯山は、再び背後からちょっかいを出されるのかと思ったのか、下から俺を見上げた。
 口元の左下にある小さなホクロが、やけに印象的だった。どうして切なそうな顔で俺を見るのか、よく判らなかった。立ち止まった俺の顔を、飛鳥は訝しげに眺めていた。
「……崎守? 何なのよ、さっさと席にいきなさいよ」
 この時の俺と飛鳥は、殆ど会話などした事の無い関係だった。
 楯山にしてもそれは同じで、普段周囲の人間と気兼ねなく会話する事など殆ど無い俺が、一瞬でも立ち止まったのを疑問に思ったのだろう。俺はしゃがんで床に散らばった教科書を拾い、楯山の机の上へと置いていった。
 突然の行動に、楯山が驚きに目を見開く。
「……私の事は、放っておいて」
 自分の惨めな姿を見られた事と、誰かに迷惑を掛けてしまう事を恐れて、そんな事を言ったのだろうか。しかし、俺はあらかた拾い終わると、立ち上がって口を開いた。
「そろそろ、担任が来る時間だ」
 俺はそれだけを言って、自分の席へ向かおうとする。しかし、前に立ち塞がる飛鳥達が邪魔だった。
「そこをどいてくれ」
 今まで忌忌しそうな顔でこちらを睨んでいた飛鳥が、はっとして通り道を開ける。しかし、こちらの声で正直な反応をしてしまった事が癪に障ったらしく、一転して喰って掛かってきた。
「あたしらが邪魔だって? 言っておくけど、これは単なる事故なんだから変な勘違いしないでよね!」
『事故』とは随分便利な言葉だな、とも思ったものの、俺は飛鳥の顔を一瞥しただけで、何も言わずに席に座った。さっさと自分の席に着席した俺を睨みながらも、飛鳥達はばらけていった。四つん這いのままだった楯山も、ようやく席に座った。
 あの時の俺は全く気付いていなかったが、こうして改めて俯瞰で見て判った事があった。席に着いた楯山は、まるで心が張り裂けそうな程の悲しさに打ちのめされたかの様な、哀切に彩られた顔をしていた。
 ここで再び、景色が一変する。
「……またか」
 今度は、空に浮かんでいた。
 下を見下せば大海原、そしていくつかの島々。
 近くに、何者かの姿が見える。
 それは翼を拡げて空を飛ぶ、セイレーンの姿だった。しかし、顔は飛鳥のものでは無く、まさに外人と言った顔立ちだった。
 どうやらこれは飛鳥では無く、セイレーンとしての記憶のようだ。
 突然、セイレーンが急停止する。
「くッ……ここまで来たというのに」
 見れば遥か遠方から、接近してくる影があった。みるみる内に大きくなるその物体は、セイレーンから少し離れた場所で止まった。
 それは背中に三対の白い大きな翼を持った、俗に天使と言われる姿に酷似した者だった。しかし、その肌は褐色に近く、アラブ系に似た顔立ちをした女で、金色の甲冑みたいなものを部分的に装着したバトルスーツの様な格好をしていた。
 その女は、セイレーンを見据えて口を開く。
「……このラビエルから逃れられるとでも?」
 それは四大天使として世に広く知られる、ラファエルの元の名前であった。
 アカシック・レコードに蓄積された情報によれば、ラビエルはバビロニア近郊のセム系部族の神の一人だったか。
 何故そんなヤツに、セイレーンが追われているのか。
 しかしそんな疑問を感じたところで、さらに第三者が忽然と現れる。
 いきなり空に出現した竜巻。
 何も無かった筈の空間を裂くかのように竜巻が出現し、それが突然晴れると、そこには見知った者が佇んでいた。
「おいおい。ここは俺達の管理区域なんだぜ」
 それは風の神、レラカムイであった。
 だとすればこの空は、東南アジアから日本にかけての何処かだろう。突然の介入に、ラビエルはレラカムイを睨み付ける。
「……その獣神は、我らの管理区域を犯したのだ。身柄を確保させて貰う」
 それを聞いたレラカムイは、両手を拡げて呆れた様な顔をした。
「で、他所の領空に入って、好き勝手やっていいって道理でもあんのか?」
 レラカムイの正論に、ラビエルはうっと唸る。
 両者のやり取りを静観していたセイレーンは、警戒感を露にしてレラカムイに問い掛ける。
「……どうしようと言うの?」
 領空侵犯はセイレーンにしても言えるのだから、警戒するのは当然だ。しかし、レラカムイはやれやれと言った風情で、右手をぶらぶらと振る。
「別に争わないってんならいいさ。来る者拒まず、しかし喧嘩はやめて〜ってな具合なのさ、ウチは。戦いをしないって約束するんなら、さっさと行っていいぜ」
 それを聞いたセイレーンは少し思案した様だったが、思い切って口を開いた。
「……判ったわ。そちらに迷惑は掛けない。しばらくこの身を休ませたいだけだから。ある程度回復したら、出て行くから安心して」
 しかし、そんなセイレーンの言葉に、ラビエルが過剰に反応する。
「逃がす訳にはいかない! 我らの管理区域内で人心を惑わせたのだ! 協定違反者には制裁措置を取るのが通例だ!!」
 それを聞いたレラカムイは疑問を感じたらしく、セイレーンに問い掛ける。
「一体お前さんは、何をしでかしたんだ?」
 しかしセイレーンとしても反論はあるのか、ラビエルを睨み付けて説明する。
「こちらはオリンポスを追放された身。消耗した力を回復させようと、人に溶け込んで人間の生活をしていたのよ。人間の男が勝手にこちらにちょっかいを掛けてきたとして、それは私が悪いとでも言うの?」
 それを受けてレラカムイは呆れた顔をする。
「……別にどうでもいいが、つまんねえ事で喧嘩してんだなあ、お前ら」
「つまらないとは何だ!悪の目があれば、それを摘み取るのが我らの役割だ!そこの魔女は、やがて災いを招く筈!!」
 レラカムイのいい加減な感想に、ラビエルは激怒した。何を言っても埒が明かないと判断したのか、レラカムイはセイレーンに向かって手を振る。
「さっさと行けって。何だか馬鹿馬鹿しくて付き合ってられねえし」
 だが逃す訳にはいかないと、ラビエルが右手を付き出して力を集束させる。
「――殺してやる!!」
 しかし、レラカムイは二人の間に割り込み、両手を拡げる。
「アホウ。お前は俺達を敵に回すつもりかよ」
 その言葉に、ラビエルは躊躇いを見せた。一瞬出来たその隙を逃さず、セイレーンは背中を向けて一気に飛び立つ。
 去り際、一言だけ言い残して。
「ありがとう、風の神よ!!」
 そこで、またもや景色は一変する。
 再びその姿を現したファフニールが、驚きの声を上げる。
「……何だ?」
 周囲は真っ白な空間で、俺達以外には何も存在しない。
 そんな中で、かつて俺と飛鳥が言葉を交わした情景が、虚空に浮かび上がった。夕暮れの音楽準備室にてギターのチューニングをしていた所に、俺の姿を見つけた飛鳥が近寄ってきた。
「……ふぅん。普段謎なヤツだって思ってたけど、ちゃんとマトモな趣味持ち合わせてたんだ」
 どうやらチューニングの確認で出していた、弦を鳴らす音に興味を引かれたらしい。それで覗いてみると、神足にとっては忌忌しい存在である俺が、ギターを鳴らしている。
 どういう気紛れで声を掛けようなどと考えたのかは判らないが、喧嘩相手としてはあまり面白くない相手だとして、少し接し方を変えようかと思ったのだろうか。
 俺は特別興味を持っていた訳では無いし、そもそも自尊心の塊みたいな女など面倒なので、無視を決め込んでいた。普段ならば、何も言わない俺に痺れを切らして癇癪を起こすのがお決まりだったのだが、その時はどうしたのか、じっとこちらを見ていただけだった。
 容赦無く俺を見詰め続けるその視線を気にしながらギターのチューニングを終えた俺は、居心地の悪さに帰り支度を始めた。
 またしてもどうしたのか、急に神足は口を開いた。
「……楯山さ、今日も来てないんだけど」
 俺は今更、こいつは何を言っているんだろうと思った。しかし、それは両者間の問題であり、俺が口出しする義理は無い。だが、偶然視界に入った神足の顔には、明らかな狼狽が見て取れた。
 それは後悔によるものか、はたまた罪悪感なのか。
「……そのようだな」
 俺はこの日、初めて口をきいた。それで少しは話が出来そうだと踏んだのか、神足はすぐに話を続けた。
「やっぱりこれって不登校ってヤツ? ……はは、アイツ馬鹿じゃないの? こっちに殴り掛かるなりしてれば、とっくにやめてあげてたのに。このままじゃニート候補まっしぐらじゃん」
 苛めていた当人が、苛められていた当人を扱き下ろすかのような、嘲りの言葉。しかし、神足の顔はちっとも笑ってなどなく、むしろ狂気を瞳に宿らせて、今にも心が張り裂けそうに見えた。
 それで初めて気付いたのは、神足こそ何かに追い詰められており、その苛立ちの発露がイジメとなっていたのではないだろうか、という事だった。
 心の均衡を保つ為に選んだのが、誰かを傷付ける事。
 しかし同時に、自らをも傷付けていたのでは。
 それは酷く、子供っぽい方法論だった。
「どうして、何も言わない訳?」
 それは誰に問うたのか、神足の目は何処も見ていなかった。
 どうして誰も何も言わないのか。
 それはまさに、誰かの庇護を求める子供の視点であった。
 しかし俺は神足と同じ歳の人間に過ぎず、そんな俺に求めるべき答えを期待するのはどうかとも思う。
 逆にこちらから問い返す。
「……それで、お前は俺に何かを言えるとでも?」
 しばらく、無言の時が過ぎる。
 頭の中を色々な言葉が駆け巡り、何を言えるのか結論が出ずにいるのだろう。ギターケースにギターを納め、鞄を手にして立ち上がった俺を、虚ろな眼で見詰める神足。まだ話し足りないのか、おずおずと口を開く。
「……気に入らなかったなら、謝る」
 その言葉に少なからぬ憤りを覚え、釣られて声を出しそうになる。しかし、僅かに間を取って頭を冷まし、言葉を選んで返答する。
「俺に謝られても。お前の問題に首を突っ込もうとは思っていないしな。どうして俺なのか、理解に苦しむ」
 それが神足の心の中の何か大事な部分を刺激したのか、まるでいきなり激昂したかのように、激しい口調で食って掛かってきた。
「アンタ、首突っ込んだじゃない!!」
 だが、それでは普段と変わらない結果に終わってしまうと考え直したのか、一旦言葉を区切って落ち着くまでこちらを睨んだまま、しばらくじっとしていた。再び口を開いた時には、何とか落ち着きを取り戻していた。
「……てっきり痺れを切らしてお節介したのか、それともあたしか楯山のどちらかに、気でもあるのかと思ってた」
 どうやらまるで斜め上方向へ、思いっきり勘違いをしていたようだ。俺は溜め息を付いてから、神足を見る事無く説明を加えた。
「単に、通り道を塞いで邪魔だったからだ。担任に見咎められて、全体に問題が拡がるのも迷惑だしな」
 隠す事無く本当の理由を教えたつもりだったが、神足は唖然とした顔をしていた。まるで、自分が思い描いていた理想が打ち砕かれた瞬間、みたいに見える。
「それに、俺は誰かに好かれようとは思っちゃいない。嫌われ者でいる方がマシだ」
 さらに追い討ちをかけるかのような辛辣な言葉に、神足は目を点にしていた。
 しかし、そこで映像はリピート再生を繰り返し、俺のその言葉が何度もリフレインされて中空に響き渡った。延々と繰り返されるその言葉は、周囲に反響し、幾重にも重なって聞こえる。
 俺は一瞬でその意味を悟る。
 どうして部外者である俺が、ずっとこの記憶を見せられていたのか。
 ファフニールの能力の意図を考えるならば、本来は俺には飛鳥の記憶を見る事は出来ない筈だった。
 これは記憶よりも現実としての俺を、飛鳥が強烈に意識している結果なのだろう。
 ならば。
「――オリンポス強制介入!!」
 ゲストユーザーから強制ハッキング。
 膨大な情報量が脳髄を焼き、奔る紫電に全ての感覚器官がホワイトアウト。
 アカシックレコードの情報バンクから、該当データを代入――
 常人では耐え切れない筈の負荷を『一徹』に肩代わりさせ、強制的にオリンポスの全権限を掌握する。
 それはミノタウロス戦において、エリカがラビュリントス破りをした時よりも高度な方法であった。
 俺の意識とリンクした飛鳥は、『心眼』を共有する。
 変質能力を持つ飛鳥の肥大した想像力は、『心眼』を得る事で『真正変質』へと昇華した。ファフニールと同等以上の能力を持てば、幻想の力を打ち破る事も可能。
 幻想の前に認識力が低下し、無意識下にあった飛鳥が自我を取り戻す。同時に周囲の景観が一変、当初の真っ白な空間へと戻った。
「何いッ!?」
 幻想を破られたファフニールが、有り得ない現象に声を荒げる。中空に浮遊していた飛鳥が、俺の目の前に降り立った。
「……誰かが側にいてくれる。それが放浪の末に見つけた、安住の地」
 成程、と俺は思う。
 記憶を見た今なら判る。
 オリンポスを追放されて以来、放浪に放浪を重ねて辿り着いた先。その場所がすぐ側に存在しているのに、ファフニールの能力が通用する訳が無い。
 術を破られたファフニールは、唸り声を上げつつ声を荒げた。
「ぐううううううッ! またしても我が力を破るかッ! 忌忌しいヤツめッ!!」
「今度はこちらの番よッ!」
 白い空間が晴れ、元の夜の海浜公園に戻る。
 散開してファフニールを取り囲んだ三人の飛鳥に、膨大なエネルギーが集まる。そして、飛鳥以外の二人のセイレーンの翼が人間の腕へと変化し、全身も人間のそれと変わらない姿になった。
 ツバサが声を張り上げる。
「――リラ!!」
 ツグミも声を張り上げる。
「――アウロス!!」
 オリンポスに収蔵されている秘宝群のデータベースから、該当する秘宝を選択。通常時では使用権限の無い秘宝は、『心眼』を得た今だけは、召喚を許可されている。
 突然、二人の前に出現する物体。
 リラと呼ばれる竪琴のような楽器と、アウロスと呼ばれるオーボエのような楽器。オリンポスより召喚された二つの楽器をそれぞれが手にし、楽器にエネルギーが注入される。
 ファフニールは飛鳥達を見回して、驚愕の声を上げる。
「何をしようというのだ!?」
 そして二つの楽器から、それぞれの音色が響き渡った。
 二つの旋律は互いに絡み合い、始めは喧嘩でもしているかのように整合性が無かった。
「メリスマ・アエイデ! ――カイロス・アルケーッ!!」
 しかし、残る飛鳥が口を開き、歌を唄い始める。
 それは、俺もよく知っているものだ。
「――これは、俺達の楽曲じゃないか」
 俺達がバンド活動で作った、飛鳥がヴォーカルの曲。
 しかし、歌詞は同じものの曲調はまるで別物で、何やら太古の民族音楽といった感じに聞こえる。その歌声が辺りに響き渡り、二つの楽器は喧嘩をやめて歌声に合わせていく。
 互いの整合性が取れた時、周囲の空間が突然震えた。
「うおおおおおおおおッ! や、やめろッ!その歌をやめろーッ!!」
 いきなり、大きな声で苦しみだすファフニール。
 次第にその姿が崩れていき、とうとう元のロキの姿へと戻ってしまった。
 両手で頭を抑え、のたうち回るロキ。
 口から泡を吹き、全身をびくびくと痙攣が襲う。
 膨大なエネルギーがロキの全身から発散され、急激に力が失われていくのが判る。
「……これは歌そのものが、滅殺プログラムなのか?」
 歌の効果は絶大だった。
 飛鳥の歌声に含まれるバイブレーションが情報体を侵食し、ロキを蝕む。
「ぐおおおおおおおおッ! 馬鹿なッ! 何故こんな力を持っているのだッ! これは『原初の歌』では無いか!!」
 ロキの最後の言葉が気になったが、それを最後にロキは消滅した。
 肉体どころかエネルギーの全てを分解されたロキの最後は、酷く呆気なかった。
 歌を終えた飛鳥は息を荒げていた。
「……はぁ、はぁ……情報を強制的に初期化して、エネルギーを中和したのよ……さっさと逃げれば良かったのにね」
 全ての力を使い果たしたのか、その言葉を残して飛鳥の姿は人間に戻った。


第五話・妖鳥乱舞
ファフニール
ラビエル
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