Sick City
第一章・獣神再来

 今日も朝からよく晴れている。
 朝っぱらから、そんな現実逃避をしたくなる。
「それでは行ってきます――いい加減、現実を認めましょうレイジさん」
 日本食の朝食を食べると必ずご機嫌になるエリカが、珍しくジト目で俺を見る。
「いい天気なのは間違い無いから、逃避じゃないと思うが……なんでアンタ達がウチにいるんだ、って言っていいのか?」
 朝の崎守家の居間に、叶と棗、忍者男に老人。そしてジャージ風の上着とカーゴパンツといった、今風の格好をしたレラカムイが座っていた。ウチの爺さんと妹の御空もいるのだが、こちらはあまり気にした風では無かった。
「何だよ、連れない事言うなって。俺達ゃ拳でド突き合った仲だろ……この場合、『強敵』と書いて『とも』と呼ぶってヤツだよ」
「……すっかり馴染んでるな」
 レラカムイの神とは思えない例えを聞いて、俺はこめかみを指で押さえる。
「レラっち知ってる? 『漢』と書いて『おとこ』って呼ぶ、ってのもあるんだよ」
 何やら役に立たない無駄知識を披露する叶を見て、俺は溜め息を付いた。
「……余計な知識を与えてるのはアンタか。いつの間にかあだ名だし」
 こいつらは横に置いておき、老人と忍者男を見る。そんな俺の伺う様な視線を感じた老人が、ウチの爺さんに向き直る。
「か弱い年寄りに優しくしてくれんのう、お前さんの孫は」
「可愛くない孫で申し訳無いと言いたいところだが、アンタも可愛く無いんだからお互い様だろうよ」
 老人の恨み節を、さらりと流した爺さん。
 きっと、朝っぱらから朝飯をたかりに来たのを根に持っているのだろう。
「忍者の頭領が、か弱い年寄りなもんかよ……」
 老人の名は桐内幸造。
 叶の祖父で修験道の使い手、その実体は、忍者の技術を今に伝える数少ない武道家だ。当然そういう事もあるんだろうとは思っていたが、案の定、ウチの爺さんと旧知の仲だったらしい。とは言え、ウチの爺さんが70歳で桐内の爺さんが80超えているらしいので、ウチの爺さんとしては目上の人間になるし、古い知り合いを邪険に扱う訳にもいかず、と言ったところだろう。
 邪険に扱っているのだが。
「まあ、フェニックスもよくこの垣内の爺さんを確保したもんだが……おかげで余計なおまけが付いてきたみたいな」
 フェニックスは狙撃を諦め、立ち去った老人と失神していた忍者男を捕えたのだが、ここにいないのについ恨み言が出てしまう。
「人数増えて楽しいからいいじゃん。ねー」
「ねー」
「いくら近所に引っ越してきたからって、朝っぱらから居着くなよな……」
 御空に釣られて、すっかり仲良しになった棗も真似をする。元々こいつらは三重に住んでいたらしいのだが、今回の一件に合わせて鎌鍬にアパートを借りているらしい。しかし5人で住むには狭い上に、食事を用意するのを叶が面倒臭がっているのだとか。
 一方、黙々と飯を食ってる最中の忍者男はスーツ姿で、まるで普通のサラリーマンみたいだった。この格好でやっと判った素顔は、眼鏡に七三分けの髪形の、まるで冴えない印象の20代後半の男だった。
 名前は仁科三郎、仲間内では『戸隠』と呼ばれているらしい。何でも伊賀忍者の系統の末裔だとかで、戸隠流と呼ばれる忍術を使うからだそうだ。戸隠流は修験道と関わりの深い流派だそうで、仁科三郎の家系は代々、桐内のお側用人を務めていたのだそうだ。
 彼らの当面のパトロンとなったエリカが、皆を見回して口を開く。
「実は、ニンジャ軍団を造るのが夢だったんですよ……ふふふ」
 それは本音か冗談か、意外と本音かも知れない。
 インターネットで時折見掛けるが、何か勘違いした忍者好きのアホな外人が、忍者のコスプレをして様々な質問に答えるとか、色々なものにチャレンジをしてみるといった馬鹿動画みたいなのが、結構沢山あったりする。もしかしたらエリカも、そんな勘違いアホ外人の内の一人なんじゃないか、と疑いの眼で見てしまう。
 話は戻って桐内陣営についてだが、桐内の爺さんを社長とするセキュリティ・リサーチ専門の会社を立ち上げ、フリッツ・シュタインメッツ名義によるクライアント契約を交して、仕事を依頼する形を取る事になったらしい。
 今まで黙していた仁科三郎が、エリカに向かって頭を下げる。
「貴女の出資金によってセキュリティ・リサーチ会社を立ち上げる事になって、本当に感謝しています。これからはフェニックスさんと協力して支援していきますので、よろしくお願いします」
 あくまで生真面目な態度の仁科三郎を見て、エリカは微笑みを返す。
「利害の一致に到って良かったです。これから頑張って下さいね」
 そんな事よりも、俺は忍者男に聞きたい事があったので質問をする。
「結局、あの三人のメイドの正確な素性はアンタ達にも判らない訳か?」
 あの後、メイド達は忽然と消息を絶った。
「……済まない。元々は、彼女達がパトロンを紹介する交換条件として、我々の手で今回の計画を完遂する必要があったのだ。彼女達がキミらと戦った理由すら、我々には判らない」
 今回の一件で俺が気にしているのは、メイド達の裏にいるヤツだ。確かミノタウロスと出会った都心の公園で、ストリートファイトのオッズメーカーらしき連中がいて、そいつらはメイド服の女達と、それを率いるゲルマン系らしき黄色いサングラスの男だった筈だ。
 フェニックスが調査をしたらしいが、彼らについては今の所は何も掴めていない。メイド服のデザインこそ違うが、今のところ思い浮かぶのはあの連中くらいだ。もしミノタウロスとの遭遇が何か意図があったとして、今回の件も含めて考えれば、秘宝争奪戦の裏で暗躍しているのは悪魔だけでは無い、という事になる。
 そんな事を思い悩む俺の顔を、少し心配そうな顔でエリカが眺めていたが、すぐに笑顔になって俺の肩を叩いた。
「こちらも体制が整いつつありますから、少しずつ前進しましょう。それより、そろそろ行きましょうか」
 時計を見れば既に、普段家を出ている時間になっていた。




 朝の教室。
 携帯音楽プレイヤーで好きな音楽を聴いたりしてまったりしていると、昨日喧嘩別れした筈の神足が声を掛けてきた。
「……あの子はどうしたの?」
 挨拶も無しに気になった事だけを言ってくるのは、機嫌が治っていないという事だろう。
「エリカか……今日は休みだ」
 俺の声はそれ程大きいものでは無かった筈だが、エリカがまだ来ていない事を気にしていた同級生達に動揺が走る。
「ふ〜ん……いきなり休むなんて余裕だねえ。アンタはどうしてここにいるのよ」
 朝からかなりキツい物言いだった。
 エリカが休みなのは、エネルギー伝送の遅延を改善する為に神域へ帰還している為だが、そんな事を言える訳も無く、俺は少しばかりどう返答しようか考える。
「アイツの都合に、俺がいちいち合わせるとでも思ってるのか? そんな事は無いから、あまり意地悪しないでくれ」
 怒っているらしいが、憎まれ口を叩きつつも、こうして構おうとする神足の行動がよく判らない。
 そんな俺達のやり取りが、いかにも不穏な雰囲気だと感じたらしい龍太郎が間に入ってくる。
「何シケた顔二人でしてやがんだか……それより、今日の練習出るだろ?」
 俺としては龍太郎の配慮に感謝したいところだったが、神足にとっては邪魔にしかならなかったようだ。
「……勝手にやってなさいよ。零二は放課後、あたしに付き合う事」
 どうやら、いつもの悪い癖が出たらしい。
 しかし再び神足に話をした方がいいのだし、ここは誘いに乗ってやるのも致し方ない。
「昨日の今日で少し怖い気もするけど、俺はそれでいい」
「んじゃ決まり」
 それだけ確認して、さっさと自分の席に戻る神足を一瞥して、龍太郎は苦い顔をした。
「またか……アレが無きゃ、もう少し付合い易いってのにな」
 散々振り回される側の俺達としては、何とも気苦労の絶えない話だ。攻撃的な性格の為か、かつての友達とも今では疎遠になってしまった神足。しかし、その友達というのは結構性質の悪い連中だったし、付合いがあればいいとも言えない。
「アレでも、自分を変えようとしてるんだろう。気長に付き合うしか無いだろ」
 俺がそう言うのもいつもの事で、龍太郎は溜め息を付いていた。
「……お前は気長過ぎるぜ。俺だけだったらとっくに無視してただろうな」
 基本が面倒臭がりな龍太郎ならそうだったかも知れないな、などと思う。俺も意図して神足と友達になった訳では無いが、基本的に周囲から一歩身を引いた立ち位置を取っている俺からすると、神足の心を蝕む日常への苛立ちというのは、よく判る気持ちなのだ。
 彼女の問題とは結局、自分の身の置き場を何処に求めるのかという、言わばアイデンティティーの問題だ。それは自分で見つけるしか無いのだから、周りの人間は静かに見守るべきだろう。
 普通は頼りになる大人が身近にいて、うまく手を引っ張ってやるんだろうが、神足は母子家庭で母娘二人、母親は仕事で忙しいらしく、そこら辺は頼れないらしい。
 拠り所を求め、自分から友達を作って一つのグループが出来た。
 しかし、苛立ちの中で集まった仲間であれば、何かやりたい事がある訳も無く、毎日遊び歩いたり気に入らない同級生を苛めたりと、目の余る行動が多かった。
 だが人は、いずれ己の間違いに気付く事もあるのだ。




 放課後になって神足は、一度家に帰って私服に着替え、横幅の和関内駅に来るようにと告げて帰ってしまった。
 仕方なく言われた通りに、家で着替えてから現地で神足と合流した。
「よし、今日は遊ぶぞ〜」
 口から出る言葉こそ威勢の良いものだが、妙に張り合いの無い語調に違和感を感じる。実の所、レラカムイから聞かされた話が気になっていて遊ぶ気なんて俺には無いのだが、だからといってこちらを放っておく訳にもいかない。
 それに、今日はエリカがいないので何かする予定も無い。
「まずはカラオケでも行こっか」
 神足はそう言って俺の手を引っ張るが、俺はカラオケと聞いて足を止めた。
「あのな、歌なら練習でいつも歌っているだろう。そういうのは、御空辺りを誘って遊ぶ時にしてくれ」
 カラオケが悪い訳じゃないが、俺は目的の無い事に時間を費やすつもりは無い。神足は、明らかにぶうたれた顔でこちらを見る。
「元メインヴォーカルだったクセに、あんたって本当にカラオケ行かないね……そんな事を言うんなら、あんた決めなさいよ」
 神足の言う通り、神足が加入する前まではメインヴォーカルを担当していたが、単に多数決でやらされただけの理由だったりする。それでもやるからには一生懸命やったが、別に際立った声質の持ち主という訳では無かったので、あまり固執してはいない。楽曲によっては俺が歌う時もあるが、割合としては殆どは神足に歌わせている。
 それよりも今日は神足に誘われて来ただけ、しかしそう言われると何か無いかと考えてしまう。
「……映画でも観に行くか」
 自分でも、意外な一言だった。
 何気なく口から飛び出た言葉だったが、それは案外いい提案だったかも知れない。
「映画ねえ……カラオケと差があるとは思えないんだけど。レンタル待ちでいいじゃん」
 しかし神足は、カラオケを差し置いて映画の方に重きを置くような俺の言い分が納得出来ないのか、あまり乗り気では無さそうだ。
「俺が観たいのは、イギリスのドキュメンタリーテレビ出身の監督のヤツなんだよ。謎が多いマッコウクジラの回遊を追った、ドキュメンタリー映画だ。映画館で観る方がきっと迫力がある」
 DVDが出たら当然買うだろうが、DVDになると映像フォーマットが圧縮規格なので、映画よりも画質が劣る。神足はそんな説明を聞いてもあまり興味が沸かないのか、不機嫌丸出しの表情を崩さなかった。
「……うわ。なんかすっごい地味。もっと派手な映画観ようよ。それに高校生らしく無い」
「派手とか地味とか、高校生らしいとかで観るもんじゃないだろう」
 すかさず放った俺の一言に、神足は言葉に詰まる。言い訳が思い付かなかったのか、仕方ないといった感じで溜め息を付く。
「……そこまで言うなら付き合うけどさ。そんなもんが面白いなんて変わってるわよ、あんた」
「ちゃんとしたストーリーもあるらしいぞ。かつて欧米人によって鯨油を目的として乱獲され、一方で日本の捕鯨には反対をする。そんな背景を前提に、北欧と日本の港町の人々や動物学者、過激な動物愛護団体などそれぞれの立場にいる人間が主軸の話になってる。客観的な視点で描く、群像劇がストーリーとしての骨子だな」
 そんなやり取りをした後、俺達は俗に言うミニシアター系の小さな映画館でその映画を観た。映画館に入る前のいかにも興味無さそうだった神足は、一転して、今は映画の感想を楽しげに口にしていた。
「クジラってあんなに深く潜れるんだね〜。大王イカはヤバイ。それにしても、海が綺麗だったなぁ」
「……まあいいか。さすがにドキュメンタリーを撮り慣れてるだけあって、構成がうまかったし」
 当初は不平不満ばかり言っていた、神足のあまりの変わりよう。それでも本人なりに楽しめたようなので安心した。
 そんな感じで、その後は日の落ちつつある街をぶらつき、横幅中華街で店先で売られていた中華まんじゅうを買い食いしていた時、店と店の間のごみ捨て場に、見知った顔を見かけて思わず声を出してしまった。
「あ」
「お」
 それは向こうも同じだったらしく、生ゴミの入ったポリバケツを両手に持ったまま、俺の顔を唖然として見ていた。
 その人物は、チャイナ服姿に前掛けを付けたリャンであった。
「……誰?」
 後ろから顔を覗かせた神足が、リャンを見て疑念を含ませた声を上げていた。リャンは自分の仕事姿を見られたのが恥ずかしいのか、慌てて店の裏口のドアを開けて中へと逃げ込んでしまった。
「……あいつ、中華街で働いてるのか」
 お約束過ぎる展開だ。
 俺は逃げてしまったリャンをどうにかしようという気にはならず、そのまま中華街を後にした。
 夜にはベイエリアの海浜公園に来ていた。
「――あのさ」
 どうしてこんな場所に来たのか俺には判らなかったが、神足の切り出し方で話があるのだと判った。夜のベンチに二人して腰掛け、海の向こうに見えている大きな橋を眺めていた。
 少し躊躇った後、神足は搾り出すように口を開いた。
「……この前の話って、嘘だよね?」
 この前の話と言うとエリカと一緒にやる事がある、と言った件だろう。神足にすれば信じられないのは無理も無いだろうが、なんとなく聞き方が不自然な気がした。
「何か確認したいのか?」
 それが図星なのか、神足はバツの悪そうな顔で俺の眼から視線を逸らす。
「……嘘ならいいなあ、って思ったんだ。本当だったら口挟めないから」
 妙な事を言う。
 本当だから口なんて挟めないのは当然なのだが、どうしてそこまで気に掛けるのだろう。
「判らないな……俺にも事情はある。エリカの件に関しては相応の責任があるんだ」
 しかし、俺の説明が神足の心の何処かに触れたのか、態度が急変した。
「……イヤなんだよ」
 今まで憎まれ口を叩いたり怒り出したりするのは慣れていたが、俺や龍太郎が見た事の無い、神足の心の深い闇が表に出てきたような、暗く重い表情を覗かせていた。
「……誰かが何処かに行っちゃうのって、凄くイヤなんだよ」
 トラウマでもあるんだろうか。
 俺はなんて言ったらいいのか迷ったが、言える事を言うしかないと決めて口を開く。
「別に何処も行ったりしない。だからちゃんと事情を話したんだ」
 その言葉が功を奏したらしく、神足は少しだけ冷静さを取り戻して、身の上話を始めた。
「……あたしが楯山静を苛めてたの、覚えてるよね」
 唐突に出てきた名前。
 ――楯山静(たてやま しず)。
 同じクラスの、目立たない女子だった。
 今も同じクラスではあるが、過度のイジメによって精神を病み、不登校になっている。元々、成績が良かった為に学園側の温情もあって進級は出来たが、このまま学校を休み続けると卒業は出来ないかも知れないと聞いた。
「……今も不登校だからな。忘れる訳が無い」
 俺は神足を非難した事は無いが、彼女にすれば俺の口から聞かされるのが一番堪えるらしい。
「はは、今まで零二は何も言わなかったもんね」
 そう呟いた神足の顔は、苦渋に満ちていた。不登校の原因を作った己を恥じているのが判る。
「別に誰でも良かった、なんて言ったら軽蔑されるんだろうね」
 それは、苛める相手は誰でも良かったという事なのか。
「……人の気持ちは千差万別だ。軽蔑していいのは、苛められた本人だけだろう」
 一般論しか言えない俺だが、神足はその言葉に首を振る。
「軽蔑してくれた方が、むしろ楽だよ。あたしはきっと、甘えているだけなんだって判ってる」
 それは俺に対しての事なんだろう。
 嫌みを言ったり怒ったり、俺や龍太郎を振り回しては機嫌を直す。そういった繰り返しを続けた結果、気持ちの収まりが付かなくなったのだろうか。
「正直に言えば、今の時点でも甘えているな」
「……そうだよね。でも、今まで甘えられるくらい信用出来る人間なんていなかったから、ついつい無理を言っちゃう」
 それは神足の事情。
 俺に事情があると言ったからだろうか、今の神足は自分の事情を俺に聞かせているのだ。
 しかしそこまで話をした時、俺の『心眼』による感覚の領域に、強大なエネルギーを感じた。
「神足、話は終わりだ」
 俺がベンチから腰を上げ、話を切って海浜公園の奥の方を睨んでいるのを見て、神足は顔を上げて、泣き出しそうな顔をして聞き返す。
「……え?」
 しかし俺の雰囲気に当てられたのか、それ以上何も言えずに、喘ぐような形で眼に怯えが走る。今まで、自分の本性を隠して普通の人間を装っていた俺の、今まで神足が知らなかった俺がそこにいる。
 強烈な殺気を放つ俺を見て一瞬、誰なのか判らなくなってしまったのだ。基本的に殺気とは、人を殺した事のある者にしか発する事が出来ない、明確な思念の事だ。
 殺す気を持つ事は即ち、己が殺される事をも覚悟するという事。それは本人がたった一人を対象としていたとしても、無関係な周囲の人間にも影響を与えてしまう。
 俺は人など殺した経験は無いが、例外が一つだけある。
 それは、死を経験した場合だ。
 その経験が例え仮死であったとしても、精神的に死と同等のインパクトを受けた時、死を明確に認識する。俺は幼い頃に瀕死の重症を負い、一時的に心肺停止状態になった事がある。それが原因で部分的な記憶障害となった訳だが、同時に殺気という強烈な思念を持つに到った。
 一度は死んだこの身、いつ死んでも悔いの残らぬ様に、常に死を意識して生きる。覚悟ある生は強固な意志となり、悪意から成り立つ明確な殺意に抗する力となる。
 ゆっくりと、こちらに歩いてくる大きな人影。薄闇に包まれ始めた海浜公園には他の人間は誰もいない。
 誰がこちらへ来るのかは判っている。しかし、どうして俺がここにいると判ったのか。照明の下に照らされたその顔を見て、俺はその相手の名を口にした。
「――ツァオシン」
 俺達の前に現れたのは、数日前に戦った、確かツァオシンとか言うあの中国人の大男だった。
「リャンがお前を街で見たと言うから、あいつに黙って探していたら、本当に出会えるとはな。よくよく貴様とは縁があるようだ」
 相変わらずの尊大な態度であった。俺の後ろの神足は、何が何だか判らないと言った感じで俺に聞いてくる。
「……何、あいつ?」
 大男の只ならぬ雰囲気は、神足にも判るのだろう。明らかに警戒した顔だったが、今度は俺を見て不安げな顔をする。
「……零二? 何か怖いよ……まるで別人みたいだよ」
 緊張する俺の雰囲気も、神足には理解の範囲を超える。次に出会えば、死合う事になるだろうとは思っていた。しかし――何も、こんな時じゃなくてもいいだろうに!
「……やるしか無いのか?」
 俺の反応を見て、ツァオシンは口を歪めて笑った。
「ははは。愚問だ」
 周囲に、凄まじいエネルギーが漲る。
 みるみる内にツァオシンの肉体が膨らんで、その正体を晒す。まるで悪夢の様な光景を前にして、一般人である神足は、泣き笑いのような顔で呆然と呟く。
「……何、アレ」
 3メートルを超える巨体に、大きな角を頭の両側から生やした牛頭。神話の中でしか聞いた事の無い、ミノタウロスと呼ばれる化け物の姿。
 強烈なプレッシャーがびりびりと肌に刺さり、まるで心臓を鷲掴みにされたかの様な息苦しさに神足の膝が笑う。がくがくと震える神足を背に、俺は調息をする。
「……これが、俺の事情なんだ。危険だから神足はここから逃げろ」
 しかし、膝が震えてまともに身動きの出来ない神足は、必死の形相で首を振る。
「む、無理! ……そっか。こんな事、誰も信じ無いよね。ごめんね」
 信じたく無くても、このプレッシャーの前に立てば信じるしか無い。俺は仕方なく、ミノタウロスに話の矛先を変える。
「こいつは無関係だ。絶対に巻き込まないと、安全を保証しろ」
「ふん。俺の目的はお前だけだ。心配しなくとも、小娘如きに手など出さんわ」
 それだけ聞けば、後は神足から少しでも離れるだけだ。
 俺はミノタウロスへと正対したまま、じりじりと神足から距離を取る。出来れば、ミノタウロスのプレッシャーの影響から神足が脱して、走って逃げる位に動けるまで引き離したい。
 俺が『心眼』の感知で、常人が重圧で動けなくなる程度の距離感を認識したのが、大体50メートル程度。今のミノタウロスとの間合いが、一歩の踏み込みでギリギリ届かない範囲なので、約21メートル。
 俺が後ろへ退けば、ミノタウロスも同じ距離だけ間合いを詰めるので、70メートル以上は後退したい。しかし、そんな俺の思惑など関係無いとばかりに、俺が8メートル後退したところでミノタウロスが口を開く。
「小賢しいヤツめ……行くぞッ!!」
 こちらの配慮などご破算になる、ミノタウロスの突進。爆発的なスピードで一気に間合いを詰め、右の拳を突き出す。
 ドゴン!!
 強烈な踏み込みによって足元のアスファルトに亀裂が奔り、周囲に破砕片が飛び散る。
「ひッ!?」
 突然起こった地鳴りと爆発音に、神足が怯えた悲鳴を上げる。しかし、俺は反転してミノタウロスの右側へと回避しつつ、この場全ての者の死角を認識し、神殺し『一徹』を左手に引き寄せた。
 距離は近いが、今なら一太刀入る。
「ふッ!!」
 ――呼気と共に抜刀。
 二尺五寸の刀身(約76センチ)が、左手の鞘から放たれる。
 ギャリン!!
 ミノタウロスの右脇腹を狙って放った斬撃は、目で見て反応出来るレベルを遥かに超える、絶妙な反射を以て打ち込まれる。
「ぬッ!?」
 しかし、相手も一流。
 こちらの殺気を敏感に感じて、その場から無理矢理左へと飛び退いた為、俺の放った一撃は硬気功に阻まれて、薄皮一枚すら斬る事は出来なかった。人間であれば、どんな達人であろうと致命傷を与えられた一撃が、獣の野生で無理矢理不発にされたような感覚。
 ミノタウロスが見せた動きは、人間の訓練によって作り上げられた動きとは全く異なる、極めて乱暴な動きだった。ズシンと地鳴りを響かせて着地したミノタウロスは、いつの間にか、俺の左手に現れた刀を見て眼を見開いた。
「……なんだそれは。いつの間に剣を手にした?」
 同じ疑問を神足も抱いたらしく、眼を丸くして驚きの声を上げた。
「……あれ? 何で日本刀なんて持ってるの?」
 俺は静かに眼を閉じ、アカシック・レコードとの共有の余韻によって、自我とは無関係に勝手に口を開いていた。
「……この世全ての死角に我が魂は有り、死角より出ずるは刀ひとつ。―――銘は『一徹(ひととおし)』也」
 半身で腰を大きく落とし、左手に鞘に収まった刀を持ち、右手はだらりと下げた格好で立つ。
 天仰理念流に伝わる居合術の構え、『立住い(たちずまい)』。
 居合とは元来、畳の上で正座した状態を基本とし、理念流においては、『居住い(いずまい)』と呼ばれる状態からの抜刀を以て居合とする。
 座した姿勢より放たれる抜刀こそ、最速を得る最高の修練とも成り得るからだ。
 ミノタウロスは身を震わせたかと思うと、次の瞬間には壮絶な程の笑い声を轟かせていた。
「……ブワッハッハッハッ! こいつは愉快ッ! 何だか判らんが、強くなったでは無いか! 俺の見る目も捨てたもんじゃ無い!!」
 何だか判らないが、気でも狂ったのでは無いか、とでも思える程の悦びようだった。
「俺が獣神で無ければ、今の一撃で死んでいたわ !まさかこれ程の使い手とは……最早、貴様は人間などでは無い」
 それを怯えた眼で聞いていた神足が、ぴくっと反応を示す。
「……獣神? ……人間じゃ、無い?」
 本人にすれば何を言っているのか判らないだろうが、単語だけを脳内で反芻して、勝手な想像でも思い浮かべているのだろうか。
「……なんでも、人間のまま人間を超えた『神殺し』って呼ぶらしいぜ」
 自分の事を、他人事のように俺は説明した。それを聞いたミノタウロスが、口元を歪める。
「クックック、『神殺し』? それは何とも刺激的な呼び名だ……ゾクゾクするぞおッ!!」
 悦びを力に変えて、弾かれたかのように再び突撃するミノタウロス。今度は両腕を突き出し、同時攻撃を仕掛けてくる。
 ミノタウロスの身体の軸が肉体の中心線に定まっている為、片手による通常の突きと比べると、左右の攻撃範囲が広い。しかも3メートルを超えて自重1トンを超える肉体は、近接戦闘においては、まるでそびえ立つ壁。
 これでは、左右へと回り込んで回避する事は不可能だ。
 俺は咄嗟の判断で、摺り足による後退を足を巧みに組み替えつつ数回行い、一気に間合いを拡げる。
 バババッ!!
 ジーンズが空気によって大きな音を立て、距離を稼いだ勢いそのままに抜刀。
 これぞ天仰理念流居合術・抜刀谺返し(こだまがえし)。
 返し技の一種だが、基本的に相手の打ち込みに対して小手を狙うので一撃必殺とはいかない。
 ビシュッ!!
 右腕に深い切り傷を与え、鮮血が飛び散る。
「ぐぉおおおおおおおッ!!」
 全神族の中でも、最高の防御力を誇るとされるミノタウロスの硬気功を初めて破り、保有エネルギーがガクンと落ちる。
 エネルギーの塊である硬気功を断ち切るという事は即ち、エネルギーそのものを断ち切る事である。何故、エリカが硬気功を突破出来なかったのかと言うと、エネルギーそのものに対してエネルギーをぶつけても対消滅するだけであり、ミノタウロスは硬気功を部分的に強化する事で、突破される事を防いでいたのだ。
 今の一撃も当然、エネルギー消費を増大させて強化させていたのだが、エネルギーとは同時に情報でもある。通常はエネルギーに含まれる情報はただのノイズであり、意味のある情報では無い。しかしエネルギーは物体の運動であり、数値化出来る時点でそれすら情報である。
 例えばどんな物体も原理があり、分子構成がある。
 構成とはメカニズムであり、運動の原理は法則と言う情報と言えるのだ。その構成を破壊し、エネルギーの運動をゼロにしてしまう。それを可能とするには、より上位の法則を情報として叩き付ける。
 ――剣筋は限りなく極線に。
 それは二次元の法則、点と線。
 崎守ではこれを、『極線(きょくせん)の術理』と呼ぶ。
 普通は人間が鍛えた通常の刀では刀身そのものを『極致の直線』にまで鍛え上げる事は不可能であり、目に見えない極僅かな誤差が生じる。さらにそれを扱う者の腕前、どんなに修業を積もうとも、『極致の直線』に刀を振るう事はやはり不可能である。
 しかし、神殺しの剣である『一徹』はこの地上に存在するどんな刀よりも『極線』に近く、それを振るう俺の剣筋も、かつての崎守が可能とした様に、限りなく『極線』に近い。さすれば岩をも両断する斬撃を可能とし、硬度をほぼ無視する事が出来る。
 それは逆に、最小の単位においても同じである。
 俺は『極線』という概念を用いて、ミノタウロスの硬気功の『エネルギー』という概念を断ち斬ったのだ。
「……なんと凄まじい剣撃よ」
 見れば普段の何倍ものエネルギーを消耗して、右腕の刀傷を修復していた。
「物質の構成から組み立てなくてはならんのでは、単なる治癒能力では回復不可能、変質能力による物質の再構成しか無い――厄介な技を持ってやがる」
 ミノタウロスは修復の終わった右腕を、ぶらぶらと揺らせて調子を確かめる。
「……ならば、こちらにも考えがある」
「……何?」
 突如としてミノタウロスの周囲に、膨大なエネルギーが発生する。
「――クリサス・ケラタ!!」
 そのエネルギーが『ある部分』に集束していき、劇的な変化を伴う。
 頭の両側に大きく伸びた、二本の角。
 今までの二倍程度の長さ、太さに変化したのだ。しかも微妙に振動しているのか、黄金色に輝きを放っている。
「……俺が獣神である事は、知っているな」
 ミノタウロスの言葉に俺は頷く。それを見てから、ミノタウロスは先を続ける。
「獣神とは自然界の高位霊である『動物霊』を憑依させた上で、他の神と同じように、人から神へと昇華した者だ。そしてこの角こそ、俺の元となった『水牛の霊』の象徴、俺の力の源なのだ」
 もし、この角を滅殺兵器ラビュリントスと併用していたら、果たしてエリカは引き分けに出来ただろうか。
 アカシック・レコードによれば、かつて神域を追放される以前、オリンポスからのエネルギー供給により、ミノタウロスのエネルギー保有量はおよそ5000万はあったようだ。現在のミノタウロスは、ラビュリントスからの供給の限界が1000万程度の為に力が制限されているだけの話であって、かつてはラビュリントスとクリサス・ケラタ(黄金の角)の併用で、一対一の戦いにおいて敵無しだったのだ。
 だが、疑問もある。
「何故、ラビュリントスを使わないんだ? 人間相手にアレを使えば、脱け出す事は出来ないだろ」
 しかしミノタウロスは、首を僅かに振って否定する。
「ラビュリントスは一度見られているからな……貴様には通用せんだろう」
 随分とこちらを買い被っているように思うが、確かに脱出する手段はある。
 エリカの時と同じようにワルハラを呼び出せばいいのだし、もしくはレラカムイ戦における、オムケカムイ破りを試すのもいいだろう。ならばこちらも、それ相応の礼儀を尽さなくては失礼か。
「……かつて神を倒す為に地球の記憶から、己の魂に不変の剣の構成情報を取り込んだ一族がいた。それがこの神殺しの剣『一徹』だ。神殺しはこの刀を手にする事で、どんな神とも必ず互角という条件を得るらしい」
 己が手の内がどんなものなのか、ミノタウロスは明かしたのだ。それならば、こちらもそれに応えるのが筋というものだろう。俺達の会話を聞いていた神足が、何か怯えたような眼をして、震える口から声を搾り出す。
「……神とか一族とか、いったい何の話なのよ……悪い冗談よしてよ……」
 俺とミノタウロスは、まさに一触即発。互いが互いの呼吸に合わせ、その時を待つ。
「……俺の角が強いか、貴様の剣が強いか……勝負ッ!!」
 それが合図となり、ミノタウロスが突進し、俺が一気に間合いを詰める。必ず互角という『神殺し』の性質上、勝負を決めるのは技の差か、運の差か。
 角を突き出し、一番信頼出来る技である頭突きを繰り出すミノタウロス。その突進スピードは今までで最速、そしてタイミングも最高のものだった。そして二つの肥大化した角に集まった、莫大なエネルギー。
「おおおおおおおッ!!!!!!!」
 交差した両者が擦違い、着地して何度も高速反転しつつ、鞘に刀を納めてミノタウロスの背中に正対する俺。
 がん、と音が響く。
「……え?」
 何が起こったのか、理解が追い付いていない神足。
 そして頭突きの姿勢で固まっていたミノタウロスの口から、低い呻き声が漏れ出る。
「……うぐ、ぐお……」
 地面に、ミノタウロスの右の角が転がっていた。
 天仰理念流居合術・切り蜻蛉(きりとんぼ)。
 ミノタウロスの頭突きを飛び上がって躱しつつ、上下逆さに錐揉み蜻蛉返り。
 身体を空中で捻りつつ抜刀。
 俺がミノタウロスの角を右側から躱しながら放った一撃は、見事に右側の角の根元を一刀両断にしていた。
 空中逆さ反転居合抜き、とでも表現した方が判りやすいだろうか。
 理念流の居合術の中でも格段に飛び抜けて難度の高い技だが、本来は飛び掛かってくる敵に対し、跳び上がりながら躱しつつ、首を刎ねる目的で使用される。リーチの長い角が邪魔をして、首を刎ねるには至らなかった。
「……俺の角が……ぐ……おおおおおおおおおおおッ!!」
 己の力の源の一つを寸断され、ミノタウロスが苦痛に悶える。地面に転がった角が消滅し、蓄えられていたエネルギーも霧散してしまう。この一撃によって、ミノタウロスの保有エネルギーは半分程度は失われた。
「……俺の勝ちだ」
 角はもう一本残っているが、同じ手を使うにしろ使わないにしろ、そこが最大の弱点でもあると知れた以上は、何をやっても引き分け以上にはならないだろう。しかし、ミノタウロスは苦痛に顔を歪めながらも、首を振って否定する。
「……莫迦を言うな! 戦う力がある限り、負けでは無いッ!!」
 こちらを振り向き、一歩を踏み出す。
 ――そんな時だった。
 何か遠くから、うねるような細長いモノが急接近してきている。
「……ちょっと待て。何かが接近してくる」
 俺が突然そんな事を口走った為か、ミノタウロスは視線を左右に巡らせる。
「……何を見え透いた嘘を――さっさと構えを取れ」
 こちらの注意を促す言葉を、全く取り合わない。
 しかし、俺の方は漠然とした危機感を感じていた。俺の索敵範囲の外から飛来する正体不明の物体に、何か間違いを犯したのでは無いかと考えてしまう。
 だがその不吉な予感は、違った形で現れた。
「……神足ッ!!」
 俺は、正体不明の物体の狙いを察知した。
 前回の経験によって多少は対物索敵も可能となったが、距離にして僅か100メートルというところでやっと掴めた。正体不明の物体は、先頭に円錐形の錘のようなモノを取り付けた鎖だった。その鎖は、かなりの遠距離から海浜公園の木々や障害物を迂回しつつ、物凄いスピードで接近してくる。
 ジャラジャラと金属音が周囲に木霊し、それを聞き取った神足は、不安げに辺りを見回す。
「……何の音?」
 こんな国に住んでいるのが致命的な原因なのだろうか、神足は危機感を感じていない。
「呆けてる場合じゃない! そこから離れろッ!!」
 神足に声を掛けながら、俺は駆け出す。
「……逃がすかッ!!」
 しかし何を勘違いしたのか、ミノタウロスが俺の行く手を阻む。
「……どけッ! ……飛鳥ッ! 逃げろーッ!!」
「ッ! ――零二!?」
 咄嗟に口から出た、『飛鳥』という普段とは違う呼び方に、神足は弾かれるようにこちらへ駆け出そうとした。
 しかし、それは余りにも遅い出足だったのだ。
 どすっ!!
「……うえ?」
 まるで蛙が、車に轢かれて、ぺしゃんこにでもされたかの様な声。
 神足の口から鮮血が迸る。
「……何、の……冗談」
 それだけを声にして、神足は前のめりに地面に倒れ伏した。
 神足飛鳥は――
 死んだ。


第五話・妖鳥乱舞
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