Sick City
第四章・暗黒瘴気

「ようやく現れたか――ワルキューレ」
 己の生み出した力を絶たれた事も気にならないのか、メフィストフェレスは悠然としていた。その声に、エリカは正面のメフィストフェレスへ視線を向ける。
「……悪魔が何故、私を必要とするのか」
 それは言われてみれば、今までのメフィストフェレスの言動はそう受け取れるものだったかも知れない。エリカの指摘を受け、メフィストフェレスは鼻で笑った。
「ふっ、それこそ愚問。未だ椅子取りゲームは続いているのだよ」
 大気に満ちる両者のエネルギーが反発し合い、二人の間で火花を散らせている。まさに、両者の関係を表していると言える。
「……ゲーム?」
 エリカの疑問符は、メフィストフェレスの言葉の意味を探る様な響きだった。
「判らんかね」
 メフィストフェレスは相変わらず、余裕を持ってエリカと対峙しており、言葉の響きも何か意図的なものを感じざるを得ない。油断無くメフィストフェレスを視界に捉えるエリカは、無言の圧力でもってメフィストフェレスを促す。
「――物質世界における唯一神の支配が終わりを告げて幾年月。それどころか、かつて権勢を誇ったはずの唯一神は既に存在すらしていないと言うのにも関わらず、その支配のシステムは相変わらず存続している。」
 メフィストフェレスの口から出た話の内容は、この地上に生きる全ての人間にとっては信じ難い話かも知れない。だが、一般的に言われる神とやらの存在を信じていない俺にとっては、判る話であった。
「……我々は、既にこの地上より退去した身。今更、欲しいものなど無い」
 訝しげに答えるエリカに、メフィストフェレスはやれやれと言った風情で、首を横に振った。
「ならば何故に、そのような指輪を遺したのかね?我ら人ならざる者全てが、このゲームの参加を強制されると思ってもらおうか」
「……何の為に」
「それは自分で調べたまえ」
 それだけを告げて、両手を拡げるメフィストフェレス。
 対峙するエリカも円形の楯を胸元に構え、左半身の体勢を取る。それを見て、口元を歪めて笑みを浮かべるメフィストフェレスに、何やら怪しげな雰囲気を感じる。
「……な」
 ――それは、突然の事だった。
 紅い空に黒い雲、そして強烈な臭気。周囲を包み込む黒いガスのような霧を吸い込んでしまい、頭がクラクラする。
「げほっ」
 どうやら神経に影響のあるガスらしく、みるみる内に思考が混乱していくのが判る。それでも『心眼』のおかげで正気を失う事は無く、地面に膝を突いて咳き込んでいる俺のすぐ側に、エリカらしき者が近寄ってきた。
「――リヒト!!」
 その声と共に眩い光が辺りを一掃したのか、周囲を包んでいた黒い霧は、たちまち消え失せた。
「ケルパー・ライニグング・ノルマールタット――マルシーレン・ズィー・フォル・エンドゥング」
 エリカが俺の額に手で触れた瞬間、たちまち思考が正常な状態に戻る。さらに、身体中に突き刺さっていた十数本の短剣が勝手に抜け落ち、傷口がみるみる内に回復していく。
「うぇっぷ。酷い目に合ったぜ――で、ここは何処なんだ?」
 周囲を見回すと、異様な光景が目に映る。
 黒い霧で淀んだ大気。
 遠方に霞んで見える、数々の巨大な岩の柱みたいな物体。
 俺達のいる場所は石作りの巨大な円形の構造物の上で、放射状に階段が下まで続いているように見える。その下の方は霞んでよく見えないが、『心眼』による認識では地表と思われるところまで続いており、高さはおよそ一千メートル程にもなる。
「ここが我ら悪魔の住む地獄だよ」
 俺の問いに答えたのはエリカでは無く、頭上からであった。見上げると、そこには滞空して俺達を見下すメフィストフェレスの姿があった。
「人の身で地獄で存在出来るとは、さすがに驚いたよ」
 言っている意味がよく判らずにいると、エリカが説明を付け加えた。
「地獄とは高次元空間であり、三次元の存在である人間には、地獄で存在する為の情報が決定的に足らないんです」
 しかしそんな事を言われて判る訳も無く、俺は痛む全身など忘れて呆けてしまう。
 その様子を、呆れた顔で眺めていたメフィストフェレスが説明を付け加えた。
「つまり、それでもこの地獄において存在していると言う事は、最早キミと言う存在は人を超えていると言う事になるのだよ。通常ならば、地獄に実像を移すのは我ら二人、キミは置き去りになるのだが」
 俺が考え込んでいるのを見て、エリカは何やら困ったような顔で説明する。
「貴方は私達の存在を見失わずに認識を続けた為に、地獄ですら認識をしてしまったかと思われます。それが出来ると言う時点で、貴方は人のまま人を超え、その力において神の領域に半ば足を踏み入れてしまっている」
 何が何だか判らないが、要するに見えないものを見ていると言う事なのか。
「次元とは同時に重なって存在しているものです。本来の三次元まで認識しているのが人間ですが、貴方はそれ以上を認識しています。こうして地獄に存在していると同時に、三次元でも存在はしているのです。ただ見えないだけで」
 なんだか話がややこしくなってきた。
「何故見えないんだ」
「コンピュータに例えるなら、32ビットと64ビットの違いのような感じでしょうか。地獄とは時空連続体の一つであり、高次元の空間でして、貴方は32ビットのプログラムが基本ですが、一部は64ビットや128ビットでの動作をしていると言えます。こうして肉体ですら地獄に存在を移していると言う事は、貴方の肉体の形成を司る情報も高次元に対応している筈で――それは既に人間とは言えません。無意識に地獄に来てしまっていると言う部分だけ認識が足りないので、そこだけが32ビットなのかも知れません」
 それなら少しは理解が出来る。
 一度に扱う事の出来るビット数の違いは、一回の計算量の違いである。無意識に地獄に来てしまった、つまり物質的な存在の移行を意図して行った訳では無く、俺が自分の意志で出来る訳では無い筈なので、その部分においては人間の能力の範疇である。
 しかし、思考能力や記憶容量とは別に認識する能力においては計算力が桁外れであり、さらに肉体の動作においてもそれが言える。時々、思考が肉体の反応についていけずに停滞してしまう事があるのは、そういった理屈なのかも知れない。
「難しい話はもういいだろう」
 呆れ顔のメフィストフェレスは、痺れを切らした訳では無いだろうが、本来の目的を遂行しようと話を本題に戻す。
「戦いの神であるワルキューレ、普通に考えれば私としては相当に分が悪い。しかし、私に有利な点が一つだけある」
 メフィストフェレスの言葉を聞き、エリカは忌忌しそうに睨み付けている。
「我ら悪魔が地獄に根差しているのと同じく、キミら北欧の神々も、天国や地獄と同じ様に世界を所有していたが、今やその世界は機能していないと聞いた。根差す世界の無い神なら、いくら単体で強力な力を持っていようとも、こうして地獄へ引き込む事が出来るのだよ」
 根差す世界が無い神とは一体どういう事なのか。そもそも、メフィストフェレスの今までの行動がどういう意図の元にあるのか、未だに判らない。
 兎に角、回りくどいと感じるのだ。
 何かメリットがあっての事なのだろうが、最終的に何を成そうと言うのか。
「――しかし、本当に機能していないのかね?」
 今のは少しおかしい。
 メフィストフェレスの最後の言葉に、俺は何か含みがある様に感じた。
「……何が言いたい」
 対してエリカも疑念を感じたのだろう。
「まぁ、やってみれば判る事か――こういうのはどうだね!!」
 今まで空中に滞空していたメフィストフェレスが両手を拡げると、周囲に渦巻く黒い霧が集まってくる。それを見たエリカは、咄嗟に俺の前に出て楯を構えた。
「暗黒瘴気か!」
 あの黒い霧は神経毒のような作用を持っていたが、それ以前に可燃性ガスという側面もあるらしい。メフィストフェレスの周囲に集まると炎となり、円環状になって周囲をぐるぐると渦巻きながら凝縮されていく。
「――アペラ・クセマ・ラハブ・ソア!!」
 裂帛の気合いと共に、背中に回した左手を振るう。
 渦巻く火炎が大きな気流となって俺達に襲い掛かる。
 未だに神経毒の影響から脱し切れていない俺だが、エリカの力によっていくらか回復しつつあるので、なんとか立ち上がって回避行動を取ろうとした。
「大丈夫。私に任せて下さい」
 そんな俺を制して、エリカは左手の円形の楯を構えた。
「ディー・ヒンメル! ディー・ドゥンクレ・ナハト・ベリヒテン!グランツト・エス!!」
 そしてなんという事か、悪魔が支配するこの地獄において、天上にオーロラが出現したのだ。
「シュネレ・エントヴィックルング!!」
 オーロラからの目には見えない干渉によって、強大なエネルギーを一気に得たエリカはその力を開放する。楯の中心から同心円状に、光で形成された何かの紋様が空中に浮き上がり、エリカの斜め前方に大きく展開された。
 それと同時に炎の気流が光に遮られ、見えない物体を避ける様に俺達の周囲を包み込む様に逸れていた。やがて炎が完全に収まり、前方に展開されていた光の紋様も消えた。
「……この地獄において、オーロラが発生する訳が無いではないか。いかに神であろうとも、単体の力のみで地獄に干渉する事など不可能」
 オーロラ自体がエリカの一部である筈だが、地獄と言う悪魔達のテリトリーにおいては、その力を自由に使える訳では無いと言う事なのか。しかし、メフィストフェレスの言い分からすると、エリカが根差す世界とやらが全く機能していないと言う事では無く、少なくとも、地獄でエリカが力を発揮する為の何らかの援護を行える状態にあると考えるのが妥当か。そしてこの事こそ、メフィストフェレスの狙いと繋がっているのではないか。
「――狙いは、エリカの根差す世界なんじゃないか?」
 俺の一言で、二人はこちらに注目した。
「今更、神だ悪魔だとかが出てきて椅子取りゲームをしているって事は、要するに覇権争いなんだろ。それがどうして今行われていて、そもそも言い出しっぺが誰なのか、疑問は多い」
 ようやく神経毒の影響から脱した俺は、立ち上がって手足のストレッチをしつつ、二人の出方を待った。メフィストフェレスは俺の話を聞いて、高らかに笑い声を上げた。
「ハッハッハ! 今更隠す事も無い。確かにその通り。しかし、誰がこのゲームの主催者なのか、正直私にも判らんのだが、そんな事はさして重要な事では無いと思うがどうかね」
「質問に答えるつもりは無さそうだな」
 俺が質問を諦めるのを見て、メフィストフェレスはいくらか語気を抑えて付け加えた。
「矛盾を感じるかね? だが、これが私にとっては最良の形でね」
「……?」
 メフィストフェレスは一体何を言いたいのだろう。
 些細な事の様だが、何か嫌な予感がした俺は、その予感の原因を探ろうと『心眼』の認識範囲を極限まで拡げてみる。
 悪意や欲望、或いは殺意。
 そうした意志を持った強いエネルギーが、四方八方から徐々に迫ってきている。
 ――数にしておよそ数万。
 接近の速度を考えると、およそ5分程度でこの周辺は完全に包囲されてしまう。エリカがオーロラを発生させた事によって、地獄に住まう悪魔の軍団が外敵の排除の為にこちらへ向かっているのだと考えられる。数万の悪魔の中には、メフィストフェレス級の強大なエネルギーを持つ存在もいくつか確認出来る。
「エリカ! 5分でメフィストフェレスを倒すんだ!!」
 俺の声を聞いたエリカは、数万の悪魔達の接近に気付いてないらしく、一瞬虚を突かれた様な表情を見せた。しかし俺の能力と言葉の意味を照らし合わせて考え、それが何を意味しているのか悟った様であった。
「……悪魔の軍団が、動き出したのですね」
 俺が無言で頷くと、エリカは再びメフィストフェレスを睨み付けながら応えた。
「判りました。5分と言わず3分で決着を付けます」
 エリカのその言葉は、俺のギリギリの予測より早く倒した方がいいと判断しての宣言だろう。それを聞いたメフィストフェレスは、皮肉めいた笑みを浮かべる。
「……5分間は互角に渡り合えるという計算の元、この状況を作り出した訳なんだが――いいだろう! 我が力、身をもって味わいたまえ!!」
 そう叫んで、再び攻撃態勢に入るメフィストフェレス。
 先程と同じ様にメフィストフェレスの周りに黒い霧が集まり、爆炎となってメフィストフェレスの周りを周回する。
「アペラ・クセマ・ラハブ・ソア!!」
 腕に力を込め、両腕をエリカに向かって突き出す。
 すると、メフィストフェレスの周りの炎から、何十という火の玉が地上に向かって放出された。
「シュネレ・エントヴィックルング!!」
 エリカは再度、楯の力を開放して防御体制を取る。開放された光の紋様が、炎の流弾を悉く弾き返す。しかし、攻撃をいちいち防御していては時間のロスを招く。
「俺に構わず攻撃に専念するんだ。こちらはこちらで何とか出来る」
 俺の指摘を受けてエリカは一瞬考えるが、俺の怪我や体調が元通りになった事もあって納得したようだ。
「……判りました。ですが広範囲に及ぶ攻撃があった場合の事も考えて、この楯を預けます」
 そう言うと楯から手を放し、エリカは空中へと一気に飛んだ。炎の流弾を巧みに躱しつつ、右手の剣に力を集約させる。
「リヒトドルック・マハト!!」
 エリカの声と共に剣が光を放つ。
 躱し切れない程の流弾を剣を振るって打ち落としつつ、急激に接近してくるエリカを見て、メフィストフェレスは右手を突き出して巨大な炎の塊を創り出した。
「――サルマウェット・エシュ!!」
 今までで、最大級の熱量を持った炎が射出された。
 眼前に迫る巨大な炎の塊に対し、エリカは左手を突き出して急停止する。
「アイン・シュレンクング! コントロレ・エフヌング――シュピーゲルング!!」
 どういう原理なのか、エリカの掛け声によって炎の塊はエリカの左手にぶつかって、メフィストフェレスへと弾き返される。自身の放った力が跳ね返ってきた事実にメフィストフェレスは驚き、両手を突き出して力を集中する。
「キシュプ・ミシュメレット!!」
 ボンッ!!
 炎が爆発を起こし、メフィストフェレスの姿が炎の中に消える。徐々に炎が消えていき、紅蓮の炎に包まれたメフィストフェレスの身体が、再びその姿を現す。
 焼き尽くされた肉体は、表面の殆どが炭化しており、通常ならば即死である。しかし、メフィストフェレスは炭化したままの状態でありながら、何か特殊な力で、周囲に響き渡る声を発声させた。
「……くくく、地獄の火炎ですら操ってみせるとは恐れ入ったよ。やはり悪魔本来の姿で無くては、勝負にならんと言う事かな!!」
 突如、メフィストフェレスの身体が再び炎に包まれる。それと共に、膨大なエネルギーが満ち溢れ、メフィストフェレス自身が炎と化す。
「……くッ! とうとう正体を現すか!!」
 炎に炙られる事を嫌ったエリカは、素手の左腕で顔を庇いつつ、メフィストフェレスから距離を取って滞空する。燃え盛る炎が人型を取り、エネルギーが凝縮される。
「ウガァアアアア!!!」
 雄叫びと共に炎が四散し、新たな肉体を実体化させたメフィストフェレスがそこにいた。
 甲虫を思わせる赤黒い外殻に包まれた姿は、まるでプロテクターでも付けたかの様に見える。背中には大きな蝙蝠の様な羽があり、ゆったりと羽ばたいている。
 そして2本の巨大な角を有し、硬質化された表皮の延長で尖った顎を持つ頭部。
 大きな犬歯と、紅く怪しい輝きを放つ禍々しい瞳。
 まさに凶悪とも言える姿形を持ったメフィストフェレスが、エリカを睨み付けていた。
「これで何の制約も無く力を発揮出来る訳だが、悪魔とワルキューレの史上初の対決となるこの戦い――胸が躍るぞ!!」
 まるで漲る力に溺れるが如く、恍惚の表情を浮かべ、メフィストフェレスは両腕を腰溜めに力を込める。
「むんッ! ――アカピシュ・パティル!!」
 裂帛の気合いと共に、両の手を突き出す。
 しかし今までとは違い、何かが起こった様には見えなかった。
「……?」
 攻撃が来るものと思っていたエリカは虚を突かれ、一瞬どうすべきか考えて動きを止めた。が、次の瞬間には己に起こった異変に気付いて、慌ててその場から退避しようとした。
「うッ! これは!?」
 しかし動けない。
 正確には身じろぎくらいは可能だが、見えない何かに束縛されているかの様に自由に動く事が出来ない。
 ――だが、俺には最初から見えていた。
 『心眼』によって判るこれらの現象は、メフィストフェレスの両手から放たれた不可視の塊が拡散し、遠方に見える巨大な柱の様な数々の大岩を接点として、この空間一帯に、まるで蜘蛛の巣の様な不可視の糸が縦横無尽に張り巡らされたのだ。
「束縛の魔術か!」
 エリカにも何らかの感知能力があるらしく、自分にどんな力が使われたのか理解している様だ。
「……こんなものでッ!!」
 通常の手段では抜け出す事は困難であるからか、エリカはエネルギーの集中をし始める。しかし、それをメフィストフェレスが許す訳が無い。
「させんよ!!」
 突如、一帯が放電現象に見舞われる。
「きゃああああああああッ!!」
 不可視の糸を伝わって、電撃がエリカの肉体を感電させる。
 周囲が明滅し、俺の視覚はまるで役に立たない。それでも、エリカは痙攣を起こし苦しみながらも、何とか現状から脱出しようと少しずつ力を集中している事が判る。
「さすがと言いたいところだが――させんと言っただろう!!」
 どうやら不可視の糸は、メフィストフェレスの滞空している辺りには張られていない様で、メフィストフェレス自身は何の影響も無い。メフィストフェレスはさらに右手を突き出し、追加攻撃を行う。
 ボボボボボッ!!
 電撃に加え、一帯が爆発に覆われる。
 誘爆現象の様に数々の爆発が立て続けて起き、止む気配が無い。『心眼』での感知では、どうやらメフィストフェレスは暗黒瘴気と呼ばれる黒い可燃性のガスを発生させて、電撃による誘爆を引き起している様であった。
「――あ、ぐ」
 エリカは既に、10回は死んでいる。
 電撃によって、思うようにエネルギーを集中する事が出来ず、肉体は爆発によって破壊され続ける。それでも、肉体を蘇生させてすぐさま復活するのだが、再び肉体を破壊されて死ぬの繰り返しだ。これこそ、総エネルギー量で大幅に劣るメフィストフェレスの必勝の策なのだ。
 対して、エリカに関しては始めに見破れなかった時点で負けていた、と言えるだろう。いくらエリカが、実力においてメフィストフェレスを上回っていようと、一方的にエネルギーを消耗していてはいつか力尽きる。
 苦しみの中で悔やむエリカの意志が俺に伝わってくる。例え復活したばかりで勝負勘が戻っていないとしても、決定的な認識の甘さを露呈してしまった己の不甲斐なさを呪わずにはいられないのだ。そして一番の理由は、命を賭して自分の為に戦い抜いた俺に対して、神として契約を行った上で何も返せないのが申し訳ないと言う、強い思いを抱いているのだ。
 それを知った時、俺の身体は既に動いていた。
 一帯に張り巡らされた不可視の糸。
 しかし『心眼』によって糸の存在を感知出来る俺にとっては、見える見えないは関係の無い事だ。何百と張り巡らされた糸の中で、メフィストフェレスと俺との間に、一本だけ電流の流れていないものがある。斜めに張られたその糸を辿ると、丁度メフィストフェレスのすぐ側まで伸びている。
 俺はエリカに渡された楯を手に、飛び上がって糸の上に乗った。幸いな事に、メフィストフェレスはエリカへの攻撃に全神経を集中している事でこちらには注意を払っておらず、俺は一気に糸の上を駆け上がって行った。
「……む!?」
 しかし目の端に俺の姿を確認出来たらしく、メフィストフェレスまであと20メートルと言うところで気付かれてしまった。とは言っても、メフィストフェレスと糸とは10メートル近く空間が開いており、この時点で気付かれてしまったのは非常にまずい。
「一か八か――やるしかない!!」
 俺はメフィストフェレスの攻撃の意志を察知し、先手を取るべく一歩飛び上がって糸の上で身体を沈ませた。
 張力によって糸が元に戻ろうとし、その力を利してメフィストフェレス目掛けて飛び上がった。
「愚か者めッ!!」
 俺が飛び上がったのと、糸に電撃が走ったのとがほぼ同時。
 一瞬の差で電撃から逃れ、弾丸の如く飛んでくる俺を前にして、ようやくメフィストフェレスは事の重大さを認識したようだった。
「サルマウェット・エシュ!!」
 エリカへの爆撃を中断し、メフィストフェレスの右手から先程の炎の気流が放たれる。俺の身体は宙を浮いており、回避は不可能。この絶体絶命の危機を脱する手段があるとすれば、それはエリカに渡された左手の楯しか考えられない。
 しかし、人間である俺が、この楯の力を使える筈も無い。あの力で無くては、炎の気流は防ぎ切れない。それでも、俺はこの力を使わなくてはならない。『心眼』の認識能力を最大限に発揮し、この楯に施された魔術のロジックを解析する。
 魔術とは、思考でエネルギーを操る術だ。
 人間如きの思考力では、エネルギーを操る程の強度を持った強い意志を生み出す事は困難だが、実は『心眼』という能力を使える時点で、俺と言う存在は魔術を使える素養を兼ね備えていると言える。俺に魔術を扱う知識などはまるで無いのだが、それを補う術がある。
 それが『心眼』による『群の認識』である。
 『群の認識』は集団意識の構築を可能とし、この地球という星の持つ記憶を中心として俺の意識を介し、エリカに対して俺の意志と同調を図る事で、エリカの行動を俺の意志に合わせる事が出来る。
 神として目覚める前に同調を果たしている為、条件は既に満たしている。とは言え相手は神、その膨大な情報量は俺の認識を遥かに超えており、エリカを操るなどと言った事は不可能である。
 しかし、俺に欠けている魔術知識を、エリカに肩代わりさせる事は出来る。
 爆撃が止み、肉体の蘇生を完了した今ならそれくらいは負担にはならないのだ。
 エリカの魔術知識の中から楯の制御に該当する情報を、脳内のニューロンを繋ぐシナプスが、互いを直結して構築する。この楯はエリカの力とは無関係であり、エネルギーの出所は『ワルハラ』と呼ばれる、かつて神々が住まいし宮殿から得ている。
 通常ならば人間が扱う事は拒否されるが、指輪を持つ俺は、エリカによって加護を得る事が出来るらしく、『ワルハラ』に存在するデータベースのようなものに個人情報が登録されているらしい。
 つまり、使用許可が既に降りているという事だ。
 だからこそ、エリカはこの楯を俺に渡したのだろう。
 問題は、この地獄では俺がこの楯を使うという事を『ワルハラ』が認識出来ないという事だ。
 エリカは元々が『ワルハラ』及び『アスガルド』に根差す神であるが故に、どのような世界にいても常に精神的に繋がりを持っている。だが、人間の俺はエリカによって死を看取られない限りは『ワルハラ』と繋がりを持つ事は無く、通常世界で無いと向こう側からはその存在がロストしてしまう。
 ――ならば。
 俺が『ワルハラ』とやらを認識してしまえばいいのではないか?
 それも『群の認識』によって、エリカを介して可能な事であった。
「シュネレ・エントヴィックルング!!」
 俺の一声によって、楯の中央から光の紋様が大きく展開される。
「何だとッ!?」
 有り得ない事が目の前で起き、メフィストフェレスは驚愕する。光の紋様によって炎の気流が防がれ、その炎の中から抜け出した俺はメフィストフェレスの懐に入っていた。
「……ふッ!!」
 腰に溜めた右手が、メフィストフェレスの左胸の上に接触する。遅れて下半身からの回転力を即座に右の掌に伝え、衝撃がメフィストフェレスの肉体に浸透した。
「……ガッ!?」
 宙に浮いた状態では、強化されたメフィストフェレスを一撃で仕留める程の威力は得られなかったが、それでも集中力を大幅に削ぐ事は出来た。俺は体勢を崩して落下したが、不可視の糸を踏み台にして地上に着地した。
 その時、辺り一帯を眩い光が埋め尽くした。電撃の威力が落ちた事によって力を取り戻したエリカが、身体の自由を奪っていた拘束を、光で打ち払ったのだ。
「イッヒ・デーン・ヴェーア・イスト! デア・ケーニッヒ・ハット・ディー・リーニエ! ディー・ドゥルヒ・ダス・ウニヴェルズム・ロイフト!!」
 エリカの高らかな掛け声と共に、膨大なエネルギーがオーロラとなって現れる。
 メフィストフェレスより、さらに上空へと舞い上がったエリカに力が漲る。
「ラシャーア・シェオール・ラーへ! ラハブ・シャビーブ・ナークシャーシュ・ショッド!!」
 対してメフィストフェレスも、エリカを迎え撃つべく地獄のエネルギーをその身に受ける。エリカは右手を天に掲げ、その上空に眩い輝きが出現する。メフィストフェレスは両腕から巨大な炎の渦を発生させ、目の前で回転させて力を凝縮させた。
「――グングニル!!」
 エリカの手からメフィストフェレス目掛けて一直線に放たれたのは、光輝く投げ槍であった。
「――ウロボロス!!」
 メフィストフェレスの両腕より放たれた巨大な炎の渦の中心には、炎に包まれ互いの尾に噛み付き合う三匹の蛇が見えた。
 互いの中央で、互いの放った力がぶつかり合う。
「……何ッ!?」
 光の槍によって三匹の蛇は蹴散らされ、炎の渦が弾き飛ばされる。炎を蹴散らしながら、メフィストフェレス目掛けて一直線に光の槍が突き進む。慌てて回避行動を取るメフィストフェレス。
「――な」
 光の槍を避けた筈だったメフィストフェレスの口から、力無く声が漏れた。回避した筈のメフィストフェレスの左胸には、光の槍が深々と突き刺さって背中へと貫通していたのだ。
「……ぐはッ、そんな馬鹿な」
 おそらく、メフィストフェレスにも超感覚能力は備わっている筈だ。それなのに何故、と言う疑問が出てくるのだが、このカラクリは『地獄』に縛られたメフィストフェレスには解けないのだ。
 正確には『特定世界に根差す』と言う関係性が必ず存在する『神』に類する連中には、あの槍を正確に感知する事は不可能と言える。あの槍は自ら光を放っているが、実はそれこそがフェイクであり、光の屈折率を変える事によって実像とは違う姿を見せていると考えられる。
 そして槍の実像は位置こそ同じものの、実はさらなる高次元に存在している。連続する時空、数多くの異世界、そういったものすら超越した、多次元多重時空間同時攻撃。
 炎を蹴散らした後、光の槍として認識していた『化身』はそのまま直線上に進み、目に見えない『本体』はあらゆる可能性に対して存在を確立、回避したメフィストフェレスの位置に進む一本が最終的に選択され、実体化する。つまり、メフィストフェレスは回避をした時点で敗北していたのだ。
 回避不能の、まさに一撃必殺攻撃。
「フェアシュヴィンデンツ・プログラム・アン・ラオフ――ツェアシュテーレン・ゲテーテン!!」
 エリカの掛け声と共に、メフィストフェレスの胸に突き刺さったままの槍がさらなる光を放つ。
「ぐぉおおおおおおおおおッ!?」
 放たれた光がメフィストフェレスの身体を、内側から崩壊させていく。肉体の再生を無理矢理促し、メフィストフェレスの本体であるエネルギーをも消滅させる。自身の消滅の間際、メフィストフェレスは最後の力で口を開いた。
「こ、心するがいい。我ら数万の悪魔の軍団が、今日この時を以て貴様らを敵と認識した事を――」
 しかしエリカはその言葉に動じず、メフィストフェレスを見返して言葉を紡ぐ。
「不毛な――魔を選んだ、かつての神よ。せめてもの情けとして、自然に還るがいい」
 光がさらに強くなり、メフィストフェレスは消滅間際に最後の一言を告げた。
「――我ら魔に情けなどいらんよ」
 それが、最も有名な悪魔の最後であった。


第一話・女神降臨
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