Sick City
第四章・浦島伝説

 どうやら蓮見は『別人格』になってしまったらしい。それも名乗りを上げたその名は、『多田市郎』なる人物。
 しかも『岩流』ですって?
 それはまさに、あの佐々木小次郎の流派では無いのか。
 漂う雰囲気はまさに別人、普段の軽薄な印象は綺麗さっぱり吹っ飛び、質実剛健にして眉目秀麗の青年剣士がそこにいた。
「水鏡(みずかがみ)に写りし其許の姿見、稀なる怪奇なり。まずは名乗りを上げよ」
 何だか喋り口調が時代掛かっていて、理解するのに時間が掛かる。特にハーフである美雪からすれば、昔の日本人の話振りは理解の外だ。
「あははは! 何言ってるのよ! 難し過ぎて訳判らないっ!」
 そもそも狂乱の中にある美雪は、知性がかなり怪しい状態にある。『多田市郎』なる人格を纏った蓮見は、すぐに話振りを変えてくる。
「お主の名を問うているのだ。美雪なる名は人型である時のものであろう。神としての名を上げよ」
 まだまだ固さは残っているものの、何となく話の文脈で言いたい事が判ったらしい。美雪の顔がパッとあからさまに愉悦に綻ぶ。
「あはっ! 判っちゃった! 判っちゃった! 名前?名前ですって!? んふっ、んふふふふっ! いいわよ教えてあげても、いいわよっ!!」
 いちいちこれでは、会話を成り立たせるのが凄く面倒臭い。大体、堅物剣士様と狂乱女では相性最悪なんじゃないか。蓮見の眉根がきつく寄せられ、嫌悪感を何とか抑え込んでいるように見える。
「……やはり、名乗らずとも良い。お主とは慣れ合いにしかならんようだ。いざ、尋常に覚悟致せ」
 人格が変わってもいい加減我慢の限度に達していたのか、早々に会話を打ち切ろうとする。逆に美雪は面白がっているのか、ケタケタと壊れた笑いを上げる。
「んはははははっ! ひどい、ひどいわっ! すっごい燃えてきちゃった! いいわよ! あなた、良過ぎよ! 教えちゃうっ! 教えてあげちゃうっ! スリスよっ! 水の女神のスリスって言うのよっ!!」
 その名を聞き、『虫の報せ』が教えてくれる。
 水の女神スリス。
 それは美雪との会話の中で、蓮見が持ち出してきたケルト神話の水の信仰に関わる女神の名前だ。ローマ神話の女神ミネルヴァとの共通点も指摘されており、マイナーな神でありながら、太古の昔にはかなり名の知れた神だったのだろうと推測出来る。
 ただ現存する資料には記述が極めて少なく、スコットランドのバースにある池がスリスの信仰を僅かに残す程度。そもそもケルト信仰において水の女神は数が多く、海に関わる女神もいれば、河川や湖畔、沼や池にまで別々の女神がいたりする。そんな中で埋没してしまうのも、致し方ない事なんだろう。
「良かろう、スリスとやら。その剣(つるぎ)が飾りでは無いのであれば、早晩相まみえるとしよう」
 蓮見の左足がジリッと前に半歩進み、間合いを刺激する。美雪改めスリスはあまり気にしていないのか、無防備に両腕を下げたままだ。
「んふぅっ! んはあっ! 殺し合うの? 殺し合っちゃうの!? ゾクゾク震えちゃう! いいかしら? いいかしらっ!? 行くわよっ! 行くわっ!!」
 突然、スリスの身体が前方に倒れた。
 ふらっと倒れ込んだかと思うと、極端な前傾姿勢で突進してくる。左手の剣は後ろに下げたまま、蓮見との間合いは30メートル程度。水圧カッターや水円盤で戦えばいいのに、敢えて接近戦を挑むのは何か勝算あっての事なのか、それともただの無謀なのか。
 スリスの左手に握られた剣は刀身78センチ程、本人の身長も蓮見より20センチ低いので、間合いは蓮見の方が広い。圧倒的な脚力を利して迫るスリスが野太刀の間合いに入る瞬間、蓮見の身体がフッと右へ傾く。
 ギャリン!!
「んぎゃっ!?」
 スリスの左へ回り込んだ蓮見は袈裟斬りで迎撃、スリスの剣とぶつかり合う。単純な腕力なら神であるスリスの方が上の筈が、体重の乗った一撃は簡単にスリスを吹っ飛ばしてしまった。
「ほう、我が『風剣(ふうけん)』を阻むか」
 多少の驚きを口にしつつ、すかさず後ろへ飛ばされたスリスとの間合いを詰める。
 剣の長さの差は、単純に圧倒的な有利となる。
 たったの12センチの差だけど、その差を埋める為にスリスは一足分だけ中に踏込む必要がある。そうなると必ず蓮見の一撃が先に来る訳で、それを捌いたとしてスリスの間合いになっても蓮見は続けて攻撃が出来る。槍などの長大なリーチ差があるなら懐に入れば剣の方が一方的に攻撃出来るんだけど、たった12センチの差は間合いの内側に入っても日本刀の構造上、槍の様に無力化する事は無い。
「あはぁっ! たまんないわ! もっとっ! もっとよっ! リンク・チェーダ!!」
 スリスは歓喜の声を上げながらも、打ち合いでは不利と悟ったのか水飛沫を発生させ、10本の水圧カッターで蓮見を迎撃する。
「――ふッ!!」
 バシバシバシンッ!!
 なんと言う事か、野太刀を縦横に振るうと刀身が全ての水圧カッターを防いだ。ダイヤモンドすら真っ二つに切断する超高水圧に、ただの鋼がびくともしない。狂乱のスリスはさすがに悦んでいられないのか、頬を膨らませて不満気な顔をする。
「んぐっ! んむむむ〜っ! なんでぇっ! なんでよおっ! 逃げなさいよっ! 逃げなくちゃ面白くないじゃないっ!!」
「……こっちの想像の斜め上を、ぶっちぎってますよ」
 どうやら彼女には独特の嗜好があるらしく、おそらく『獲物を追い立てるのが面白い』みたいな事を言いたいらしい。対して蓮見は何ら感慨すら感じてはいないのか、斜に構えたまま再び野太刀を右肩に担ぐ。
「我が魂、既に桃源にて永遠なり。我が剣(つるぎ)、決して損なう事無し」
 何となく、言ってる事が判る。
 野太刀に宿る『多田市郎』の魂は大地の記憶の一部であり、それは古来より『剣霊』なる呼び名を持つ。
 歴史に残る名工が鍛え上げた、魂の欠片。
 それを扱う者が剣の道を極めた時、二つの魂は一つとなり、刀は『霊』を宿す。強固なる意志は決して衰えぬ『情報』となり、無窮の彼方にて永遠を得る。
 今や快楽殺人者と成り果てたスリスに対し、軽薄な悪党から『剣霊』へと昇華した蓮見。
 当初の二人のスタンスは逆転し、まるで何かの皮肉なのでは無いかと思えてしまう。
「んはぁっ! いいわぁ〜っ! 逃げないなら襲っちゃうんだからっ!!」
 一転して狂喜し、無防備にも蓮見に躍り掛かるスリス。
「……なんか、ド変態を相手にしなくちゃならない多田市郎さんが可哀想に思えてきた」
 ここまで来ると、あいつはただの変態にしか見えない。
 水の女神なんて言うから清楚なイメージを抱くのが普通なのに、目の前にいる女はピチピチ水着姿の変態女。強靱な脚力を以て跳躍したスリスは、蓮見の頭上から剣を打ち降ろしてくる。
「……ならば受けてみよ。岩流の奥義をッ!!」
 瞬間、肩に担いだ野太刀を腰へ下げたかと思うと一転して斜め上に刀身が跳ね上がり、スリスの剣と激突する。
 ギャリギャリッ!!
 耳障りな音と共に、野太刀の刀身がスリスの剣を斜め左下へ受け流す。剣撃を逸らされたスリスは蓮見の左へ着地、右へ動いた蓮見の野太刀が、左から右へと切り返される。
「んにゃっ!?」
 驚異的な反射でバックステップ、切り返しを紙一重で躱したスリスをさらに右から野太刀が襲い掛かる。
 ――ザシュッ!!
「いぎいッ!?」
 スリスの左腕が宙に舞う。
 血飛沫では無く水飛沫を上げて剣ごと飛ばされた腕が、地面に転がる。
「――岩流奥義・虎切(こせつ)」
 右に斬り抜けたまま、蓮見は息を吐いた。
 脅威の三連攻撃。
 一撃が一拍、つまり『構え、狙い、打つ』が一つとなってビデオのコマ落としの様に一瞬で終わる。それが立て続けに3セット、これは二刀目を躱したスリスを褒めてあげるべきだ。そもそも切り返し時に数トンの慣性が掛かっているのにも関わらず、それを難なく可能にするのだから常識の範疇を超えている。
 常人なら一刀目で死ぬし、達人なら二刀目で死ぬ。
 それを初めて受けたにも関わらず、三刀目でも死ななかったのだからスリスもさすがに神の一員だと言える。左腕を斬り落とされたスリスは、激痛に半狂乱となる。
「んぎぃっ! ふぎいっ! 痛いッ! 痛い痛い痛い痛いッ!!」
 全身をぶるぶると震わせ、右に左にうろうろと行ったり来たりする。そして獰猛な光を眼に宿し、蓮見をぎろりと睨む。
「うひいっ! 殺すッ! もう殺すッ! 何度も何度も、殺して殺して生き返らせて殺してぇっ! 生き返らせたら殺して殺したら生き返らせるっ! それで殺してまた殺して、もっともっと殺してあげるんだから!!」
 まるで支離滅裂な言動に、蓮見の眉が険しく寄せられる。
「……実に不憫なる女子(おなご)よの。生き様も死に様も、所詮は泡沫(うたかた)なり。ある者は己を賭し、ある者は享楽に没する。だが剣を持つならば、お主もまた剣士。生死の狭間にて何を見るか、我が術にて知れ」
 狂乱に対峙するは節度、或いはエクスタシーと対決するモラル。相反する二人は、対決者として巧妙な組み合わせに見える。
 肘上から切断された左腕から多量の水をダラダラと落ちるに任せ、スリスは右手を前へと突きだす。
「あはっ! あはははははっ!! 普通に治らないっ! 治らないっ! 回復しないっ! しないから殺しちゃうっ! コークリベット・マカラ!!」
 何が何だかさっぱりだけど、傷を治す気が無いのか攻撃に転ずる。
 周囲に水の泡が浮遊し、突如として高速回転。
 合わせて20枚の水円盤が、蓮見に向かって襲い掛かる。軌道をコントロール出来るらしく、蓮見の周りをぐるぐると回りながら取り囲む水円盤。全方向から包囲され、逃げ場の無い状況に立たされながらも平然としている。
「ふむ、水芸ならば京で見た覚えあり。いかような奇術であろうと、これもまた風流なるかな。涼しげなり涼しげなり」
 もしかしたらバカにしてるのかも知れないけど、言い回しが古風過ぎて全然バカにしてるようには聞こえない。それでも生真面目なだけの人間では無い事が判り、何となく好感が持てる。
「あはっ! バカにされちゃった! たまんない! たまんないわよ!!」
 バカにされて何が嬉しいんだか、クネクネと身体をくねらせて身悶えするスリス。それと同時に、一斉に襲い掛かる水円盤――それが立て続けに弾け飛ぶ。
「んにゃっ!?」
 一瞬の出来事に奇妙な声を上げるスリス。
 蓮見の野太刀は水円盤でも切る事は出来ず、即座に間合いを詰められて一気に3枚が破壊された。そこに出来た一瞬の空間から脱出を果たし、スリスの左側面に蓮見がいた。
「受けてみよ我が秘剣ッ!!」
 肩越しから放たれる、必殺の袈裟斬り。
 剣を失ったスリスには、回避する以外に術は無い。
「みゃっ!」
 どんどん変な方向にキャラが変わってきてる様な奇妙な声と共に、スリスは慌ててバックステップ。爆発的な瞬発力によって後方へ10メートルはスライドするも、蓮見はその動きに難なく追随する。振り降ろされた刀身は左下段から、一気に右上へと切り上げられる。さすがに回避は不可能で、スリスは右手に水の塊を纏わせて防御に使った。
 ズバッ!!
「ぎいっ!?」
 しかし全く役には立たず、左腕と同じ様に右腕を吹っ飛ばされてしまう。
 右上に煌めく残光、さらに反転。
 再び袈裟斬りが右上から襲い掛かり、スリスの左肩から右の腰上までを一刀両断にした。
「これぞ岩流奥義・飛燕(ひえん)なり」
『飛燕』――それは、あの有名な『燕返し』のモデルとなった技だった。
 一説には中条流の『虎切(こせつ)』こそが、『燕返し』だとも言われている。しかし、小太刀を主体とする『虎切』を単に野太刀に適用しただけで、伝説化する程の技になる筈が無い。
『虎切』も普通に考えたらとんでもない必殺技であり、戦国時代末期から江戸時代初期において連続技は殆ど存在しなかったらしい。一撃で必ず仕留める事こそが重要視され、二回連続で攻撃するなんて発想は無かったのだ。そんな当時の剣術において、それでも三回連続攻撃を可能としていた中条流はかなり革新的だったと言える。
 その『虎切』をベースとし、右上段の死角から左下段の死角、さらに右上段と『虎切』からさらに反応が難しい技へと進化したのが『飛燕』なのだろう。
 伝説の必殺技によってスリスは身体を両断され、上半身と下半身が別々に地面に落ちる。だけどスリスからは、未だに強力なエネルギーが感じられる。
「……ふ、ふふっ、んふ〜っ! 最高っ! さいっこおうっ! もぉ〜ダメぇ〜! いいわよぉ〜! とってもいいわよっ! フィオル・バーハ!!」
 うつ伏せに倒れたままの上半身だけのスリスが、ジタバタと四肢を ばたつかせながら恍惚とした顔をする。さらに膨大なエネルギーが集束し、スリスの身体から水飛沫が上がる。
 見る見る内に地面は水浸しになり、切断された両腕と下半身がドロドロと水に溶け込んでしまう。上半身の切断面に粘度の高い水が覆い被さり、たちまち両腕と下半身に変質した。
 元の肉体を取り戻したスリスがゆっくりと立ち上がるのを見て、蓮見はそれでも平然と見据えていた。
「ふむ。さすがに神ともなれば、想念乗らぬ剣撃では大した痛手にはならぬか。まずはその狂気、鎮めねば某(それがし)とて気も漫ろ(すずろ)となるは必定なり」
 言い回しが相変わらず古くさ過ぎて難解だけど、要するにやる気が無くて刃筋が立ちませんでした、って意味だろう。
『刃筋が立つ』とは日本刀における独特の表現で、理念流においては『極線の術理』と通じるものだ。肉を切るならば刃が直角に当たる事で、よりスムーズに肉を切る事が出来る。
 でも修練が不足していたら手首に相応の筋力が無い為、刃がブレる。刃がブレれば当然、刃の表面の摩擦係数は増大する。それでも一刀両断にしたのだから、それ以上は必要無いのではと誰もが思うだろう。
 でも物質とは、目では見えない細胞によって成り立っている。
 細胞組織を破壊したところで『神』はすぐに修繕可能な訳で、分子レベルから破壊する事こそ最上である。そうなれば損傷箇所を修繕するのは不可能で、修繕するべき細胞が分解されているのだから『再構築』が必要となる。それを可能とするには細胞を無から再び『生み出す』必要があるので、修繕よりも膨大なエネルギーを要するのだ。
 そして、線上に『経穴』が存在したらどうなるか。
 高次元からのエネルギー供給を担う『経穴』には、神の全てとも言える『個』が集約されている。
 全てのエネルギーを相殺する事なんて不可能だけど、『個』さえ破壊出来れば神は己を維持する事が出来なくなる。
『極線』を可能とするには強固な意志が必要で、全動作において分子レベルで動きを統制出来なくてはならない。それを可能とするには『心眼』と同等の認識力が必須であり、蓮見にも『リーディング』が備わっている。
 物体から情報を読み取る力、それは限定的ながら剣を振るうと言う作業においては『心眼』に匹敵する認識力を発揮し得る。
 蓮見の本来の人格ではさすがにそこまで到達出来ていないだろうけど、『多田市郎』なる天才ならば可能なのかも知れない。
 ならばあの野太刀こそ、かの有名な『備前長船長光』なのだろう。そしてそれを振るう筋力に欠けている筈の蓮見の肉体で、それを可能とするからには、より強固なる意志が必要だ。立ち合うに値する相手で無くては、そこまでの気力が湧いてこないと言いたいのだ。
 だけど、スリスの狂気を鎮めるとは具体的にはどうするんだろう。
 スリスはどうやら、蓮見に対して愛憎入り乱れた感情を持つに到ったと見える。どうしてそうなっちゃったかは経験乏しい私にはよく理解出来ないけど、スリス自身も訳が判らないから狂ってしまっているのかも知れない。
 再び剣を手にしたスリスが、頭上に剣を突き立てた奇妙な構えを取る。
「んふっ! あなたの剣、素敵ね! だから私、カラドボルグ使っちゃうわね〜っ!!」
 ――カラドボルグ。
 そんな名前の剣は、どう考えても一つしか有り得ない。
 ケルト神話のアルスター伝説に伝わる魔剣。どうして水の女神がそんなもんを持っているのか、全く理解出来ない。
 再び30メートルも間合いが離れてしまっているのに、天に向かってそびえ立つ木の様な構えにどんな意味があるのだろうか。だけどスリスから放たれる強烈なプレッシャーに、蓮見は少しばかり目を見張る。
 膨大な神気、剣に流れ込むエネルギー。
「行くわよっ! エドラワー・コング!!」
 頭上に掲げたカラドボルグが、遠い間合いにも関わらず一気に振り降ろされた。
 シャキーーーーーーーンッ!!
 甲高い摩擦音が反響し、空間が『斬られた』。
 剣の開始点から振り降ろしの終点までの円弧が、500メートルもの長大な『線』となる。
 蓮見は咄嗟に右へと逃れ、それでも前髪を何本か斬られた。
「――霧を媒介とし、空を斬るか」
 全てを両断する剣閃。
 霧を形成する水分子を超振動させ、空間をも切り裂く。カラドボルグとはおそらく、スリスの所有する滅殺兵器なのだろう。
「あはっ! 避けられちゃった〜っ! でもいいのよっ! 逃げて逃げてぇ〜!!」
 まるで堪えていないのか、スリスは相変わらずの変態トークを炸裂させる。冷汗が頬を伝い、僅かに顔を緊張させつつ蓮見は冷徹にスリスを見据える。
「……狂気の淵にあろうとも、神なれば安易なる油断は我が身を滅ぼすか。ならば某、我が身を削らん。岩流奥義・水守(みなかみ)――とくと見よ」
 両手に握った野太刀を右肩に置き、何を思ったかくるりと反転して背中を見せてしまう。あれでは攻撃に転じようとしても、動作が増えるだけで全く利点を感じない。まさかあのまま逃げるとは思えないけど、何を考えているのかさっぱり判らない。『水の守り』なんて言うからには、防御に徹した構えなのだろうか。
「んふっ! もぉ〜いっかいっ! エドラワー・コング!!」
 蓮見の構えに興味が無いのか、スリスは再び剣閃を振るう。
 シャキィーーーーーーーンッ!!
 鼓膜を直接刺激する様な耳障りな音と共に、水分子振動が空間を切り裂く。発動されてからでは避ける事は不可能――にも関わらず、蓮見は無傷だった。
「んにゃっ!?」
 どうしてそこに蓮見がいるのか、スリスの目線が下に向く。
 学ランの背中と、スリスの股下に伸びた刀身。
 ズバン!!
「――いぎッ!?」
 背中をスリスに向けたまま、屈み込んで後方へ大きく伸ばした左足がスリスの股下にあった。まるで豹のようなしなやかな低姿勢から、頭の後ろから背中に野太刀を置き、柄を両の掌で挟んだだけという構えで刀身をスリスの股下に差し込み、野太刀を再び両手で握り込んで一気にはね上げ、前へと大きく振りかぶった。
 股下から一刀両断にされたスリスの身体は二つに分割され、血飛沫ならぬ水飛沫を上げて両側に倒れた。
「一条の線、我が魂に合わせぬる事、最上の守りなりけり」
 振り降ろした野太刀を地面から引き離して、蓮見はゆっくりと立ち上がった。これは後ろ向きのままでスライドするかの様に間合いを詰め、水分子振動の直線に対して野太刀を直線に合わせて防御したのだ。三尺の長さは蓮見の身体を完全にカバーし、カラドボルグの能力を完璧に封鎖した。
 だけど、後ろ向きのまま一瞬で間合いを詰めるとは、やはり多田市郎なる人物は『佐々木小次郎』なのだろう。
 佐々木小次郎がまず初めに修めたとされる中条流は、小太刀を得意とする関係上、間合いのエキスパートだと言われている。自分の得物よりも長い武器を相手にする事が殆どだった為、相手の懐に入る為の技術は全剣術中、最高とされる。間合いを詰めるのを得意としているにも関わらず、敢えてリーチの長い野太刀を選んだのは死角を完全に無くす為だったのだろう。
『水守』とは、まさに攻防一体の秘剣だと言えるけど、本来は背後の敵に対して使用される技だと思われる。
「……再び甦る前に、お主の心の内を水鏡にて映すとしよう」
 真っ二つに別たれたスリスの身体から溢れ出ていた水溜まりに、蓮見の右手が浸かる。その瞬間、蓮見の全身に震えが奔って激しい反応を見せる。
「うッ! うおおおおおおおおッ!!」
 何やら苦しげに叫んだかと思うと、ぜえぜえと過呼吸を繰り返して僅かに頭を横に振った。
「……ふぅ、ふぅ、ふぅ〜っ。ったく、だからこいつを握るのはイヤなんだ。上手く説明出来ないからって、俺の方に解釈を丸投げするんじゃねぇよ」
 何という事か、蓮見の口調がいつもの通りに戻っていた。
「……器用なヤツね〜」
 ぽそっと呟いたつもりが、どうやら蓮見の耳に届いていたらしい。こちらを恨みがましい目付きで睨んでくる。
「ほっとけ。それより面白い事を知ったぜ。どうやら俺より先に、こいつに俺は『リーディング』されていたらしい。まさか同じ能力の持ち主だったとは思わなかった。裸絞めの時みたいだな」
 それを聞いて軽く混乱してしまう。
 確かスリスが狂ったのは、蓮見の裸絞めの時だった。それが『リーディング』した結果なのだとすると、蓮見の何かを知って狂ったのでは無いか。
「んふ〜、そうよ〜、そうなのよぉ〜。あはっ! 見付けちゃった、見付けちゃった! 浦島大夫(うらしまだゆう)の子孫! 裏切り者の大夫ッ!!」
 突如、地面の水溜まりが盛り上がったかと思うと、叫び声を上げながらスリスの全身が現れた。
「……浦島大夫?」
 何が何だかさっぱり判らない。
 スリスの前で立ち上がった蓮見は、頭に手をやりながら呻くように説明する。
「浦島太郎の事さ。相模国の浦島大夫。それが浦島太郎の正体なんだ。大夫ってのは律令制の位の事だな。奈良時代の頃だ。その浦島大夫は、相模国の地方行政官みたいなヤツで、一時期、丹後国(たんごのくに)に赴任していた。その時の逸話が浦島伝説になったんだな。乙姫――実はケルトの女神スリスだったってオチさ」
 なんか日本史の知識が要求される話になってしまった。細かい事は判らないけど、浦島太郎の話だったらさすがに判る。助けた亀に連れられて、竜宮城で乙姫と三年暮らす。
「浦島大夫は助けたウミガメを『リーディング』したんだ。それでウミガメがスリスのペットだと知り、ウミガメに導かれて無人島に渡った。そこでスリスと出会い、神域『ティル・ナ・ノーグ』に連れて行かれちまった。三年もスリスと暮らしたが、親が心配になって現実世界に帰りたくなった。そこでスリスの元に必ず戻ると約束をし、現実世界に帰還したんだ。だが――浦島大夫は戻らなかった」
 蓮見の独白を前に、スリスは突然ヒステリックに泣き始める。
「そうよ! どうして! ずっと待ってたのにどうしてっ! あああああああっ!!」
 何故、どうして。
 理由を知る事無く今まで生きてきた為に、スリスの心は壊れかけの状態。ちょっと同情しちゃうけど、蓮見はそんなスリスを睨み付ける。
「随分とテメエ勝手だよな。『ティル・ナ・ノーグ』に行ったら現実世界とは時間の流れが違うって、どうして教えなかった?」
「しょうがないじゃないっ! そんな事言ったら、一緒にいてくれないじゃないのよっ!!」
 まるで痴話喧嘩みたいになっちゃってる。
 だけど二人して冷静さを失っては話にならないのだから、一方の蓮見が冷静さを維持出来ているのは安心感がある。
「お前に騙された事を知った浦島大夫は、400年の空白を埋める為に現実に留まる事を選択した。当時は源氏が平氏を追討した屋島の合戦が起こって、浦島大夫は子孫の多田姓を名乗って源氏方に与した。その時の論功行賞を以て相模国に再び根を降ろした。そして時は流れて戦国時代。丹後の武将、京極高次(きょうごくたかつぐ)の家臣、多田有閑(ゆうかん)の弟の多田市郎は、浦島大夫の子孫だった。そして俺の本名は多田卓郎。蓮見ってのは防諜任務の為のカバー、母親方の姓を名乗ってるだけさ」
 京極なんとかやら多田有閑だとか、私には判らない名前ばかり。
 要するに蓮見は佐々木小次郎のモデルである多田市郎の子孫で、多田市郎は浦島太郎の子孫って事みたい。
「多田市郎は中条流から岩流を興し、相模国にて『鬼退治』に加わった。その戦いを生き延び、京極高次の配下として関ヶ原の戦いに参戦した。その後、長門国にて多くの門弟を抱えていたが、宮本武蔵の父、新免無二斎(しんめんむにさい)の円明流と敵対関係にあった。武蔵のプロデューサーだった無二斎の意向により、1603年40歳の時に船島にて18歳の武蔵と決闘、それに勝利する。市郎の連続攻撃に魅せられた武蔵は岩流の門下に入るが、無二斎は息子が歴史の影に埋もれる事を恐れ、多田市郎を謀殺。痺れ薬を飲ませ、円明流の門弟達に襲わせた。そして勝者による歴史の改変が起こる。無二斎の門弟達によって武蔵が勝利したのだと喧伝され、武蔵は父親には逆らえず黙殺。武蔵は生涯、多田市郎に関してだけは決して口にする事は無かった。悔恨の念に苛まれつつ」
 なんと言う事だろうか。
 巌流島の決闘に、そんな真実が隠されていたなんて誰が知っているのか。
 宮本武蔵は生涯無敗、誰もがそう信じる。だけど真相は歴史の闇の中、本当は佐々木小次郎=多田市郎に敗れており、多田市郎は歴史の影に埋もれていたのだ。
「証拠は少ない。岩流は現存していて、多田市郎の名は残っている。だが『巌流』と『岩流』は別物とされ、『燕返し』は残っていない。だけど武蔵の二天一流に『虎振(とらふり)』なる技が残っていて、それはまさに『虎切』を片手に改良した技だ。そしてそれこそ、多田市郎から学び取った技なんだ」
 そこで話は終わりとでも言うのか、蓮見は野太刀を右手一本で右肩に構える。
「さて、そろそろケリを着けようじゃないか。片手一本の『虎切』が武蔵の『虎振』。だが『虎振』までもが、実は多田市郎の生み出した技。ここから先は、真の『燕返し』だぜ」
 燕返しなんて技は現実には存在しない。だけどそのモデルとなった技は、確かに存在する。
『飛燕』こそがそうなんだけど、さらにそれすら上回る技があるのだとするなら。
 スリスは蓮見の独特の構えに刺激され、再びカラドボルグを頭上に構える。
「……うぐっ、もういい! 大夫はもういない! いないのよっ! 死んで! 私の為に死んで! エドラワー・コング!!」
 再び襲い掛かる水分子振動。
「――愚かなり」
 いつの間にか多田市郎の人格へと変貌し、再び後ろ向きで『水守』。既に二度もスリスの『エドラワー・コング』なる技を破っているのだから、三度目も通用しない。
 しかしいくら狂っているからと言って、スリスもさすがに何の考えも無しに行動している訳じゃない。蓮見の接近を予期していたスリスは、爆発的な脚力によって頭上へ大きく跳び上がる。
「むッ!?」
 真の『燕返し』を披露する筈が、先にスリスが仕掛ける。
「あはははははっ! 今度は『海豚(イルカ)の霊』の滅殺能力を見せてあげるわ! ミュアウート・カリラ!!」
 膨大なエネルギーが水飛沫を生み出し、蓮見の周囲を取り囲む水壁となる。
 高さ5メートルもの水壁の前に逃げ場は無く、蓮見は呆気なく水に呑み込まれる。そして見る見る内に水量が増えていき、スリスが水柱の中にダイブする。スリスは蓮見の周囲をぐるぐると泳ぎ回り、両肩の装甲板から超音波を放射する。
 蓮見の周囲の水が超音波によって振動を増幅、中国武術における『発勁』と同種の効果を肉体に与えるのだ。
「――ッ!!」
 それに対抗するのは、やはり『水守』だった。
 蓮見は水流による回転によって、身体をぐるぐると回転させていた。背中に担いだ野太刀はスリスの泳ぐ方向に完全一致、つまり背を見せたままで超音波振動を受け続ける。
 そして、全ての振動は鉱物へと集束する。
 水晶発振と同じく一定間隔で振動する刀身は、運動エネルギーを大地へと返す。水の中にいても足は接地していて、『水守』の構えのままで回転を止めて野太刀を振り降ろす。
 ――バシン!!
 大地に叩き付けられた刀身から、振動が伝播する。
 細かくも激しい振動は大地を震わせ、円形プールを形成する水を『解体』した。
「んなっ!?」
 水という触媒が存在しなくては、スリスの滅殺能力は効力を失う。まるで対スリス戦に特化したような『岩流』の奥義。
「……乙姫に鬼神。我ら一族の定め、神に抗う術を伝えるものなり」
 二つ目の滅殺能力すら破り、真の『燕返し』が繰り出される。
 水の浮力を失ったスリスは、咄嗟に蓮見の間合いから逃れようとする。爆発的な脚力は20メートルのバックジャンプを可能にしたものの、既に蓮見の一刀目が振るわれていた。
 ギャリン!!
 右手一本が背中から鞭のようにしなり、両手の時よりも長いリーチを活かして野太刀がカラドボルグを打ち払う。野太刀を握ったまま肘が柔らかく衝撃を吸収し、下段に振り降ろされる刀身がその最中に翻って間を開けずに逆袈裟に跳ね上がる。同時に間合いを詰め、後退し続けるスリスの胴を切り上げる。
「いっ!?」
 以前よりも広くなった間合いに、スリスはベリーロールで右へジャンプして野太刀を躱した。蓮見の左5メートル先に着地し、反撃しようと左手を突き出す。
 ――ズバン!!
「ぎいいいいいいいいっ!?」
 スリスの絶叫が周囲に響き渡る。
 中空にて円弧を描いた刀身は、背面からくるりと反転してスリスの右肩から鳩尾までを袈裟斬りにしていた。
「岩流奥義・岩燕(いわつばめ)」
『岩燕』――まさに断崖を往来する燕の如く。
 上昇気流に乗り、海面すれすれから一気に上昇に転じ、そして再び空を切って弧を描く。片腕一本の剣撃は刀身を柔軟に翻す事を可能とし、同時に両手時よりも一歩分のリーチを伸ばす。二刀目を右斜め上へと跳ね上げたまま、既に左足を軸として右足を後方へ滑らせて背中から左へ反転、背面から逆回転によって死角を生み出し、剣筋を悟らせずに間合いを詰めて三刀目が炸裂。
 この技を可能とするには緻密な歩法を必要とし、さらに片腕だけで野太刀を振るうという、とんでもない膂力(りょりょく)をも必要とする。蓮見の身体は本来はそんな筋力を備えていない筈だけど、多田市郎の強靱な精神力は蓮見の潜在能力を100%引き出す事を可能とした。
「ぎいっ! いぎいっ!!」
 エネルギーの中核を破壊され、スリスが悶絶している。その顔は苦悶の表情に歪んでいたが、突如として別の顔が明滅して現れた。それを認識出来たのは、おそらく多田市郎が『リーディング』によって認識した結果だ。私と多田市郎の認識が一時的に共感を生み、多田市郎の見ているものが私にも見える。
「――真の敵を我、見たり」
 徐々に浮き出る顔、それは苦悶に歪んだ『仮面』だった。
 スリスに同化して意志を捩じ曲げ、狂気に駆り立てた要因。
 ケツアルコアトルが指摘した『仮面の神』と言う言葉が脳裏に閃き、暗躍する存在の正体を悟る。『心眼』では看破出来なかった敵の姿を捉えた、多田市郎の明鏡止水の心。再び野太刀を振るおうと右腕を持ち上げようとしたけど、その腕は既に限界を超えていた。
『仮面』はニヤリと笑みを浮かべ、跡形も無く消え去ってしまった。
 多田市郎は僅かに顔を歪め、悔しげに呻いた。
「……無念なり」
 限界まで能力を引き出した結果、多田市郎の人格は役割を終えて蓮見に交代した。
「……ハァ、ハァ、くそ。右腕がブッ壊れちまったじゃねーか。でもどうよ、背びれをぶった切ったぜ」
 胴体を鳩尾まで寸断した刀身は、背びれにも到達していた。『極線』で『経穴』を切断され、スリスの身体からエネルギーが拡散していく。同時に、私を引き離していた水の壁も消え去る。
「……あ、ああっ! そう、そうね。もう、私は生きていても、存在する意味を見出す事は、無いのね」
 スリスは『仮面』の呪縛から開放され、やっと本来の自分を取り戻した。狂乱から覚醒し、潤んだ瞳で蓮見を見る。
「ふ、ふふっ。やっと見付けた。愛しい人の面影を。それが見れて、もう思い残す事は無いわ。あなたに、感謝します。生きる亡霊となった私を、この世のくびきから開放してくれて」
 妄念に縛られ、世界を徘徊した人魚。
 おそらくは世界中に伝わる『人魚伝説』は、それが真相なのだろう。人々の信仰を失った女神は、海の生き物に愛されて生き永らえる事が出来た。だけど自分と等価の愛情に飢え、同じ価値観を共有出来る人間に出会った。
 それが『リーディング』を持つ浦島大夫。
 消え行く女神の非運を目の当たりにし、大地の集団意識は彼女を救済しても良いと、私に選択肢を与えた。
『虫の報せ』は救済方法を教えてくれる。
『神』は人の認識によって成り立ち、一人の人間が強い『個』を持つならば、たった一人の人間だけでも『神』を存続させ得る。
 そしてそこに愛情があるのなら、尚更だ。
 同情なんていらないのかも知れないけど、そこから生まれる感情に嘘は無い。だから少なからず同情を感じているのに、それを顔に出さずにいる蓮見の背中を私は蹴った。
「この悪党め! 乙女の気持ちを受け入れろ!!」
 ドン!
「うわっ!?」
 背中を押された蓮見の顔が、消え行くスリスの顔とぶつかり合う。さらに蓮見の後頭部をアイアンクロー、そしてスリスの顔へ押し付ける。
 これぞ必殺、強制ディープキスコンボ。
「むぐっ! むぐうっ!!」
 ジタバタと暴れる蓮見の顔を、スリスは消え掛かりながらも両手で掴んでキスに応じる。無理矢理とは言え、『リーディング』によってスリスの意識を覗き見る事になった蓮見。
 スリスは神としての『個』を維持する為、イルカやクジラなどの水棲哺乳類に自身を認識させていた。蓮見の認識は彼ら水棲哺乳類達とは違っていて当然、つまり新たな認識者によって再構築されるスリスは、今までとは違った『個』を持つ事になる。
 スリスの身体は所々が崩壊し、既に両足を失っていた。そして遂に蓮見の頬を挟み込んでいた両の掌が消失し、支えを失ってお互いの唇が離れる。
「――ぶはっ! いきなり何を……おおっ!?」
 やっと口が離れて早速文句を言おうとしたところで、目の前の光景にそれすら忘れてしまう。
 ぱっと弾けて水飛沫になってしまったスリス。
 パシャパシャと地面を濡らし、蓮見の足下は水浸しになる。
 スリスの身体に食い込んでいた野太刀が、甲高い音を立てて地面に転がった。霧散しつつあったエネルギーが再び集束をし、水溜まりから一本の腕がにょっきりと生える。
「……おいおい、そりゃ俺に掴めって言ってんのか?」
 ぶるぶると震える水溜まりを見て、蓮見は懐疑的な顔で声を漏らす。エネルギーが元に戻ろうとしているのに、スリスは新たな『個』を形成しきれない。
 それは、蓮見だけの認識では足らないと言う事なのだ。
「判らないかな〜。多田市郎さんの出番なんじゃない?」
 私の指摘に、蓮見の顔が歪む。
「せっかく引っ込んでくれたのに、また呼び出せってか。やれやれ」
 ブツブツと文句を言いつつも、地面に屈み込んだ蓮見の左手が再び野太刀を掴む。
「ぐ、ぐううううううっ!! ――致し方ない。桃源へ到るには、未だ道半ばと心得よ」
 再び多田市郎の人格になった蓮見は、まともに動かない筈の右手をなんとか動かしてスリスの手を取る。
 そしてゆっくりと、その手を引き上げていく。
 水溜まりの中から現れた、新たな『個』を持ったスリス。その姿を見て、『多田市郎』は眼を見開いて呻いた。
「――某の郷愁、思い過ごしでは無かったのか」
 そこにいたのは、スリスでも無ければ美雪でも無く。いや、外見は同じだったけど中身、人格が違う。
 少女は『多田市郎』を見詰めて口を開く。
「……いいえ。正真正銘、貴方様の妻にございます」
 澄み渡る様な少女の声に、『多田市郎』は僅かに身体を震わせた。
「まさか。『ゆき』である筈が無かろう。ならばスリスなる者は、どこぞへと消えたのだ」
 到底理解の追い付かない展開に、私はただ傍観するしか無い。少女は柔らかな微笑みを浮かべ、戸惑う『多田市郎』に語りかける。
「かつて貴方様の妻として、お側に仕えさせていただいておりました。あの頃、水の女神としては目覚めておらず、ただの人として生きていたのです。貴方様のお心が、眠っていたわたくしを呼び覚ましたので御座います」
 どうやら、スリスは『ゆき』と言う人格に変わってしまったらしい。しかも『多田市郎』の奥さんだったって言うんだから、二度ビックリだ。どういうカラクリなのか判り辛いんだけど、もしかしたら乙姫として浦島大夫と別れた後、人間として日本人に溶け込み、その過程で何の因果か『ゆき』という女性として『多田一郎』の妻になっていたのだろう。
 スリス=美雪では『多田市郎』の認識では足らないので、スリス=ゆきへと『個』を構築し直した。
 やっと『ゆき』そのものなのだと悟ったのか、『多田市郎』は感極まって『ゆき』の身体を両腕で抱き締めた。
「……再び現し世にて息をせねばならぬとは、そなたには申し訳無く思う。だが、歓喜の極みにいる事もまた事実。再び、我が妻となりて迷惑であろうが許せ」
『ゆき』はそれに応じるかの様に、両の腕で抱き締め返した。
「迷惑などと、感じた事など一度たりとてありませぬ。貴方様のお側にいられます事に、何の憂いがありましょう。せめて想いを残さぬように致しましょう」
 固く抱き締め合い、お互いの存在を確かめ合う。
 この時間が出来るだけ長く続けばいいと、二人の姿を眺めながら強く思ったのだった。


第九話・乙姫伝説
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