Sick City
第三章・対潜戦術

 霧の中から、膨大なエネルギーを感じる。水中からの接近であった為、私のアンテナでは直前まで感知出来なかった。蓮見の『リーディング』でも判らなかったらしく、二人して気付かなかったのはどうしようも無い事として諦めるしか無い。
「……浦部美雪か? 叶さん、さっきの術をやってくれ!」
 蓮見の要請に、叶さんが扇を構えて応じる。
「烈風呪法! ――天狗扇!!」
 びゅおっと突風が発生し、一時的とは言え霧が晴れる。
 目の前に飛び込んできたその姿に、全員が唖然としてしまう。白い髪に薄紅色の瞳は相変わらず、しかしその格好があまりにも現実離れしていて思わず見入ってしまった。
 身体は艶のある水着とウェットスーツの間の子みたいな衣装でぴっちりと覆われ、両肩には笹かまぼこを半分にした様な装甲板がくっ付いている。左手には西洋の長剣を握っていて、膨大なエネルギーが流れ込んでいるのを感じる。
 バロールやケツアルコアトルが1億、アヌビスが3500万程度だったけど、浦部美雪のエネルギーはおよそ2000万と、今までの敵に比べれば大分劣る。霧が晴れた事で美雪の『経穴』が、背中の突起物にあるのが判った。
「……随分とイメチェンしたもんだな。水中に特化した姿って訳か? 海洋学者さんは実は海の化け物でしたってオチだったか。それにしても、いきなり襲い掛かってくるなんて俺達が何かしたか? ちょっと話聞いただけじゃねえか」
 ちょっとって言う割には白熱してた様な気もするけど、確かにいきなり襲われるのは理解出来ない。浦部美雪と思われる異形の女は、蓮見の言い分に不快感で顔を歪ませた。
「……底の見えない男。理由を知りたければ、私に打ち勝ってみせなさい!」
 言うや否や、いきなり後方へ大きく跳び上がったかと思うと空中で逆さに反転、その一瞬に背中にジェット戦闘機の尾翼みたいな装甲板が垣間見えた。
 ――ザバンッ!!
 そして、そのまま水路へとダイブ。
 水中に潜られると地上アンテナの探知には引っ掛からなくなるから、かなり厄介な敵だと言える。さらに濃霧が周辺から流れ込み、再び見通しが悪くなってしまう。おそらくは、この霧も美雪の能力なのだろう。
「う〜ん、敵ながら天晴れ。どう考えても、私の『心眼』を知ってるとしか思えないね。ここまで的確な対応取られるとは思わなかったなぁ。だけど水中戦ねえ……どうしよっか?」
 あまり知られていない事だけど、弓矢でも一応は水中の敵に攻撃は可能だ。水深5メートルも潜られたらアウトだけど、美雪だって地上へ攻撃をする時は浮上しなくてはならないのだから、少なくともその瞬間にはこちらも攻撃が可能だ。
 問題は蓮見や叶さんの方で、蓮見はどうやらナイフと小太刀しか攻撃手段は無いみたいだし、今まで叶さんが披露した術の中で、美雪に対抗出来そうなものは殆ど無い。
「おいおい、俺がナイフしか持ってないと思ってないか? こんなものだって、あるんだぜ?」
 そう言った途端、蓮見は学ランの左袖の中に右手を突っ込み、金属製のワイヤーみたいものを引っ張り出した。
 多分、真鍮製のトラップワイヤーの類いなんだと思う。
 蓮見は糸を袖の中に戻すと、学ランのポケットからズーワールドのパンフレットを取り出して目の前で広げる。
「マップを見れば判るが、主要な道沿いには必ず水路が設けられている。つまり、逃げるのは困難だって事だ。でも考え方を変え、美雪から奇襲を受けずに済む安全地帯を探すなら話は変わる。空調の効いた施設、例えばレストランやショップの中ならば霧の影響を受けず、水中からの奇襲も防げる。俺と崎守の二人でアイツの相手をするから、叶さんは静ちゃんを連れて近場の建物に避難してくれ」
「りょうか〜い」
 こんな状況でも、叶さんはいつも通りなので安心感を覚える。
 マップを見るとこの動物園エリアには目ぼしい施設は一つも無く、外周部の遊戯エリアに行かなくてはならない。
「って事は、遊園地まで静ちゃん達を守りながら送ってあげなくちゃ。どのルートがいいかな?」
「普通に考えりゃ、なるべく水路に接しない様に林を突っ切るべきだ。しかし相手は学者、頭はキレるだろ。別に水の中じゃなくても戦えるんだとすれば、寧ろ林の中こそ危険だ。少なくとも水路沿いならば、水の中から来ると判ってんだからそっちの方がマシだ」
 蓮見の言う通り、美雪は普通に二本脚で立っていたのだから地上でも戦える筈だ。それでも水中戦を選んだのは、単純に本人の得意なフィールドであるのと当時に、私の『心眼』を封じる意味もあるのだろう。
「もしも広い空間が見付かれば、その時点でヤツに仕掛ける。叶さん達とは別れなきゃならないが、ヤツを必ず釘付けにしてやる。崎守は兎に角、ガンガン打ち込んでやれ」
 何をやろうとしているのか判らないけど、次から次へと指示が飛ぶ。
「……ま、別にいいけど。それじゃ、作戦スタート!」
 私の号令で、四人一緒になって水路の右側に沿って走り出す。
 蓮見が先行し、叶さんが静ちゃんの前を走る。私は最後尾で走りながら、白銀を引き出して次々とそこら中に打ち込んでアンテナを立てる。
 水中へと消えた美雪が、どのタイミングで奇襲を仕掛けてくるのか予想が付かない。そもそも、今までの流れの中でいくらでも奇襲のチャンスはあった筈だ。
 200メートル程走ると水路が三つ又に別れていて、横に走る水路の上に橋が掛かっている。アンテナを仕掛けているおかげで、200メートル先までは感知出来ている。橋の横幅は3メートル程度、木製で手摺りは90センチ位しか無い。
「前に橋があるよ!」
「……トラップを仕掛けるには、絶好のポイントってヤツだな! 美雪は橋の下から仕掛けるつもりだ!!」
 私の警告に、蓮見は即座に反応する。美雪がそのつもりなら、こちらが先手を取った方がいいだろう。
「私が援護する!」
 今までとは毛色の異なる敵に対し、何か有効な手立ては無いかと思った瞬間、例の『虫の報せ』が脳裏に閃いた。
 背中の『死角』から、新たな矢を引き出す。
 その矢は白銀では無く、『黒金(くろがね)』と呼ばれている。
 それはその名の通り、真っ黒な未知の金属で出来た奇妙な形状を持った矢だった。矢尻は白銀と同じく針の様に尖っているけど、その周囲をぐるっと巻き付く様な格好で、六つの『返し』が斜めに突き出ている。例えるなら船のスクリューに似ていて、同時に銛をも連想させる。
 そして尖端から末端に掛けて、絶妙なバランスで比重が変化している。矢尻が一番重く、矢柄(やがら)から矢筈(やはず)へと段々軽くなっている。
 白銀もそうだったけど、黒金の矢羽根も形状記憶合金みたいに柔らかく、それでいて頑強だ。ちなみに矢柄とは矢の幹の部分、矢筈とは一番後ろの、弓の弦に引っ掛ける部分の事を指す。
 この黒金は形状が白銀と違う事からも判る通り、白銀とは用途が違う。白銀は誘導弾として使う事が出来たけど、黒金にはその能力は無い。
 その能力は、到って単純。
 弓構えと同時に急停止、斜め八十度上空へ向けて速射。まずは最初の交戦なのだから、あっと驚かせた上で慌てさせてやる。
 黒金は誘導弾の様な緻密で地味な能力では無く、単純かつ明快、それでいて豪快な能力に偏っている。『死角』にて偏在する存在であるのだから、何も一本だけの存在に固執しなくてもいい。私が認識を変えるだけで、黒金は『死角』にてズラッと増えていく。
 とりあえず、20本でいいかな。
 さらに『死角』に留めたまま、現世で与えるべき慣性を情報として付与しておく。そして再び現世へ認識を移行すれば、中空にて20本に増えた黒金が姿を現す。
 バシャバシャバシャッ!!
 上方向への慣性を失った20本の黒金が、自然落下して橋の左右へとそれぞれ10本ずつ着水していく。
 弦に添えた白銀で、『鳴弦』を実行する。
 常人では捉える事の出来ない、高周波振動。その振動は空間を伝播し、水面に浮かぶ20本の黒金を微震動させる。鳴動する黒金は矢尻から反射波を発振、水中に存在する物体を潜水艦のソナーみたいにエコーで感知するのだ。海上の標識として用いられる、ビーコンみたいなものだと思えばいい。
 黒金による水中探査能力は500メートル程度なので、水深5メートルの水路では必要以上の能力がある。
「――見付けた!」
 美雪は橋の真下の、一番深い所で待ち構えていた。
 どうやら黒金の反射波を受けて探知された事を悟ったらしく、狭い水路の中をぐるぐると円を描いて渦潮を生み出した。イルカはソナーと同じ様に音波を発振して、返ってくるエコーで前方の物体を知覚出来るらしいけど、美雪にも同じ能力があるのかも知れない。
「うおッ!?」
 突然発生した水の竜巻が、蓮見のすぐ目の前で橋を貫いた。一瞬で木製の橋は粉砕されてしまい、蓮見は橋の手前で右へと方向転換するしか無かった。
「さすがは海の化け物、水が攻撃手段みたいね〜」
 橋を破壊してもなお治まらない水流を見て、叶さんが余裕の一言。渦潮は全ての黒金を巻き込み、回転する水流が弾けたかと思うと四方八方へ黒金を吹き飛ばす。
「そんな事もあろうかと! 兵法陣立・不知火(しらぬい)――命(めい)を以て断ずッ!!」
 黒金に与えた慣性は、私の意志一つで発動される。ぎゅるぎゅると高速回転し、水飛沫を上げながらのサイドワインダー。弧を描きつつ戻って来た黒金は、猛烈な回転力を活かして水中の美雪目掛けて次々と水面へ突入していく。
 これが黒金のもう一つの側面、リモートコントロール式の回転徹甲弾。白銀の誘導弾とは違って、事前にどんな動きを与えるのかを設定。
 発動後はコントロールが出来ないので、精密な誘導能力は持ち合わせてはいない。その代わり貫通能力は白銀とは比べ物にならないので、単純な攻撃力は黒金の方が上だ。さらにソナー能力も相変わらず発揮しているので、攻撃と索敵の両方が可能。
 だけど相手は、イルカ並の水中航行能力を持つ化け物。次々と襲い掛かる黒金を、器用にひらりひらりと躱す。全弾躱されてしまった結果、黒金は水路の底面のコンクリートに深々と突き刺さってしまった。
 仕方が無いので再び黒金を速射して20本に増やし、水面へと着水させた。水底に刺さった黒金もビーコンとしての能力は生きているから、そのままにしておく。
 白銀の地上レーダーと、黒金による水中ソナーの両面作戦。対する美雪は右へと走る私達に時速80キロで追い付き、そのまま並走。簡単に追い越せる筈なのに並走してくるのは何か仕掛けてくる前触れだと判断して、今度は白銀を引き出して弓に添える。
 さらに美雪の後方に置いてきぼりとなった20本の黒金を発動させ、逃げ場が無くなるように水路全体に散らして追尾させる。高速で追い掛けてくる黒金が美雪を捉える瞬間、まるでイルカのように水上へとジャンプして躱されてしまった。
「掛かった!」
 それは想定していた事なので、美雪がジャンプするのを見越して既に弓構えは完了していた。水上3メートルに飛び上がった美雪目掛け、急停止と同時に白銀を速射。
「――リンク・チェーダ!!」
 美雪は掛け声と同時にくるりと横回転、身体に纏わり付いていた水飛沫がシャワー状に拡散され、数十本の水圧カッターとなって私達に襲い掛かる。美雪目掛けて飛んでいた白銀は、水圧カッターによって弾かれたしまった。
「――激震呪法・溶岩流(ようがんりゅう)ッ!!」
 静ちゃんの手を取りながら走っていた叶さんが、片手で呪符を地面へと投げ付ける。
 ズゴン!!
 一瞬、大地が振動したかと思うと、莫大なエネルギーと共に地面が割れ、赤熱する溶岩が液状のまま火柱となって噴出した。
 水圧カッターと溶岩流がほぼ同時に発現し、水と熱がぶつかり合う。高速で射出された水圧は工業用に用いられてダイヤモンドすら綺麗に両断し得るけど、数千度の熱量が行く手を阻んでいる以上、たちまち蒸発させられてしまう。
 一方で、術を仕掛けた当の叶さんが何故か驚いていた。
「……術の威力が増してる?」
 何だか判らないけど、本人が思ってた以上の威力があったみたいだ。
 美雪はそのまま水の中へと消え、時速80キロで私達を引き離して先へ行く。その前方には慣性を失った20本の黒金が、海上のブイの如く水面に垂直に浮いていた。出足を止められていた蓮見達に追い付くと、再びパンフレットを手に何やら考え込んでいた。
「……あっちの方角に、人工的に作られた水源地があるらしい。それなりの広さがあるだろうから、俺はそこに『仕掛け』を作る。それまでヤツを引き付けておいてくれないか?」
 そう説明した蓮見が、左方向を指で指し示す。
 水源地なんて美雪にすれば好条件のフィールドなんだろうけど、蓮見も何か考えがあってそこを選らんだのだろう。とは言え、当初の予定では遊園地エリアの施設を目指していたのだから、そちらも両立させなくてはならない。
「じゃあ私達三人は、美雪を引き付けながら遊園地エリアに行くね」
「そうしてくれ。じゃあな」
 蓮見が向かうべき水源地に行くには、水路を越えなくてはならない。しかし左腕を対岸の木に向けたかと思うと、左袖から何かが発射された。先程の透明なワイヤーの尖端に、金属製のフックが取り付けられていたらしい。フックが水路の上を覆う木の枝に引っ掛かり、左袖の中からモーター音が鳴り響く。
「よっ!」
 ワイヤーで器用に枝にぶら下がり、蓮見は一気に水路を跳び越えた。向こう岸に着地して、ワイヤーを緩めて軽く振るとフックが枝から外れ、モーターが左袖へと巻き上がる。
「……うわ〜、便利だなぁ。アレってやっぱり、スパイ道具なのかな」
 手を振ってさっさと走り去って行く蓮見の背中を見ながら、ちょっと羨ましく思った。
「はいはい、私達も行くわよ」
 叶さんが呆れ顔でそれを断じ、私達も移動を再開する。
 美雪はおそらく、蓮見と同じように霧を媒介としてこちらの動向を把握しているかと思われる。だとすれば当然、蓮見が別行動しているのを悟っている筈で、そちらへ行かせないように立ち回らなくてはならない。
 それには、間髪入れずに攻撃あるのみ。
 美雪は姿を見せた時に私が弓を持っていたのを知っている筈で、それならば矢で攻撃され続ければ私に反撃してくるだろう。
 すぐに黒金を取り出し、空に向けて速射。
 20本に増えた黒金が水路に着水、移動中の美雪目掛けて潜航する。しかし単調な攻撃はあっさりと躱されてしまい、水中の美雪はそのまま水路を突き進む。黒金は失速して攻撃能力を失うけど、そのままソナーとして水中探査を続ける。どうやら300メートル先からは水路の幅が10メートルになっているらしく、確か遊園地エリアの水路がその位だったと思う。
「えっと、300メートル先が遊園地エリアで、その手前で待ち伏せてるみたい」
 美雪が待ち伏せしているとなると素直に通してくれる筈が無いのだから、何か手を考えなくてはならない。パンフレットを広げてマップを確認すると、叶さんが指である一点を指し示す。
「……もう一つ、出入り口があるわね。このマップだと距離が判らないけど、そんなに離れてはいないんじゃないかしら」
 近くに出入り口が二つあるのは、おそらくボートの運航の関係で入り口と出口に分けているからだと思う。もう一つの出入り口を出て少し離れた所に、お化け屋敷があるらしい。
 地上レーダー網が無いので水路以外の周辺状況は把握出来ていないけど、遊園地エリアに入れば一般客もいる筈で、出来ればそちらでは戦いたくない。霧が動物園エリアを中心として拡がっているのだとして、遊園地エリアでは人目に付くだろうし、動物園側にもまだ人がいるとは思うけど見られないだけまだマシだ。
「私が美雪を引き付けるから、叶さんと静ちゃんはもう一つの出口へ行って。ここで別れた方がいいみたい」
 私の申し出に、叶さんは不安そうな顔をする。
「一人で大丈夫? あいつの水攻撃、何でも斬っちゃうわよ」
 叶さんがいれば溶岩流で防げるけど、私一人では防御手段が何も無い。だけどそんな事を言ったら今までも防御手段なんて一つも無かった訳だし、今更それを憂えても意味は無い。
「大丈夫。空飛ぶ蛇だってやっつけたんだから、アレに比べたら大した事無いよ」
 そう言って軽くガッツポーズをすると、叶さんは笑みを浮かべながら静ちゃんを促す。
「それじゃ行きましょうか。御空ちゃんなら、きっと大丈夫だから」
「……うん。気を付けて、御空ちゃん」
 何だか久しぶりに静ちゃんの声を聴いた様な気がするけど、今まで余裕が無かったのかも知れない。考えてみればこんな状況で冷静になれって言う方がどうかしてると思うし、パニックにならなかっただけ、まだ静ちゃんはマシな方なんだろう。
 去って行く二人を見届けて、再び黒金を速射。
 20本では足らないのだから今度は40本に増やし、美雪まで300メートル手前に着水させて待機させる。さらに250メートル地点と200メートル地点にも40本ずつ待機させ、最後に白銀を引き出してから一気に前へと走る。同時に300メートル地点の黒金を発動させ、美雪の待ち伏せに対する牽制とする。
 黒金から発射されるエコーで美雪の位置を改めて確認、急停止と同時に空へ向けて白銀を連続速射。霧の中において自由な配置が出来る白銀の特性を活かし、美雪の頭上から12本の白銀を降らせる。美雪は水中から迫ってきた40本の黒金を、水上へジャンプする事で回避した。
 そこへ突き刺さる、12本の白銀。
「――がッ!?」
 霧中と水中の二面作戦によって自身の絶対的有利を確信していたんだろうけど、それに対応する能力が私にあったのは大きな誤算だった筈だ。遅れて250メートル地点と200メートル地点の黒金を発動させ、『経穴』のある背ビレを正確に貫く為の白銀を新たに引き出す。
 今までは白銀を誘導する為にはアンテナとなる別の白銀を必要としていたけど、霧の中だとどうして自由な配置が可能となるのか。これは空間に対する私個人の認識と、他者からの認識との温度差が関わっている。
 空を誰も見ていないとしても、何処かの空を誰かが見ている。
 その時点で『共通認識』が存在している為、『私だけの認識』を少なからず侵食してしまう。これが霧や雨などによって『共通認識』が低下する事によって、私の認識は独立性を増す。
 結局、レーダー能力と攻撃能力はトレードオフの関係なのだ。通常空間においてはレーダー能力に最適化され、レーダー能力が低下する空間においては攻撃能力に特化する。
「くッ――リンク・チェーダ!!」
 全身に12本の白銀を浴びた美雪は、水面へと落下する間際に水圧カッターを拡散させた。だけど白銀のレーダー能力によってその挙動を察知出来たので、脳裏には泥棒映画なんかで熱感知センサーを赤外線スコープで見るかのように水圧カッターの軌跡が思い浮かんだ。
 僅か一秒間の猶予において、反射的に左へと空中側転によって回避運動。身体を後ろへ倒して面積を減らし、大きく拡げた両足は絶妙な動作によって水圧カッターを全て掻い潜った。
 水中に落ちた美雪に、40本の黒金が時間差で襲い掛かる。水路全体を覆う様に散らしたので、美雪の身体を貫いたのは7本。さらに50メートル遅れて到達した40本の黒金の内、8本が美雪を貫く。
 全身を27本の矢で貫かれたのに、水面には血の赤い色は浮かんでいない。ダメージは確実に与えているだろうけど、人間とは違って血が出る訳では無いらしい。白銀と黒金が突き刺さったままレーダー能力を発揮しているので、美雪の背ビレにある『経穴』の正確なポイントが感知出来る。
「貰った!」
 背中から白銀を取り出しながら、美雪目掛けて間合いを詰める。助走を付けて水路の上へと飛び上がり、弓を引きつつ逆さ反転運動。
 天仰理念流近接射術・弓蜻蛉。
 ――シュバッ!!
 突然水面が爆発し、橋を破壊したのと同じ水柱が立ち上がる。
 迫る白銀を巻き込み、さらに空中の私へと襲い掛かってくる。しかし既に反転運動のまま移動中なので、水柱は私の背中を微かにかすめただけだった。
 5メートルの幅を持つ水路を、ギリギリ跳び越えて対岸へと着地。水路を覗いてみると、水面が渦巻いて洗濯機みたいになっている。
 どうやら美雪は、水中で身体に突き刺さったままの白銀と黒金を渦潮によって引っこ抜いたみたいで、これでは白銀を正確に誘導する事は難しい。それでも当面は私を脅威と認識させる事には成功しただろうから、開き直って仕切り直すしか無い。
 その時、制服のポケットの中からケータイの着信音が鳴り響いた。対応している最中に攻撃でもされたら堪らないから、その場で反転して動物園エリアの奥へと駆け出す。着信音はメールでは無くて通話の着信だったので、ケータイを取り出して電話に出た。
『――お、ちゃんと出た』
 軽薄そうな声の主は蓮見だった。
 軽く脱力感を感じたものの、こんな非常時に電話なんて掛けてくるくらいだから『仕掛け』が完了したのだと推測出来る。
「そろそろいい? こっちは静ちゃん達と別れて、美雪を釘付けにしてるから」
『おう、何時でもいいぞ。ショートカットしないで、ちゃんと水路沿いに来いよ』
 地上を走る私と水中を潜航する美雪では、そのスピードに大きな差が生まれる。相手の方が圧倒的に早いのだから、移動中に何度も攻撃に晒されてしまう。
 ケータイを切ってポケットにしまい込むと、丁度美雪が態勢を立て直して追跡を始めたところだった。やはり『神』相手に、あの程度のダメージでは全く話にならないみたい。ぶっちぎりで追い抜かれ、前方で強烈なエネルギーが発生する。
 ――ヒュイン!
「うわっ!?」
 いきなり何かが飛んできて、咄嗟に右へ飛んで躱す。左の頬を薄皮一枚切られ、僅かに血が滲む。
 ――ヒュッ!ヒュッ!ヒュッ!
 さらに数多の攻撃が飛んできて、たまらず反転して躱し続ける。
 チュイーーーーーン!!
 右手に幾つも立ち並んでいた木々が、鋭利な物体によって両断されていく。
 連続反転運動の最中、白銀を天に向けて連続速射、12本の白銀で『霧切舞』を全方位に陣立てる。感知能力が飛躍的に増大した事で、前方に滞空する数多の物体を感知出来た。
 それは、浮遊する水の泡だった。
 濃密な霧の中で壊れずにいるのだから、泡の膜を形成する水分は通常よりも粘度が高いと思われる。そして浮遊していると言う事は、おそらくは泡の内部の大気組成がヘリウムガスみたいな軽い気体かと考えられる。
 大きさはバレーボール位、泡の数は50個にも及ぶ。
 その内の10個がいきなり高速で横回転を始め、回転と共に楕円形に変形していき、見る見る内に真っ平らの円盤状になってしまった。だけどいくら高速回転をしているとは言え、相手はただの水。
 咄嗟に白銀を天に向けて連続速射し、再び『霧切舞』を陣立てる。今度は先程とは違って私の目の前に横一列に並べ立て、丁度膝下の高さに鉄柵みたいな形になる。
 シュイーンと音を立て、回転する10枚の円盤がいきなり飛んでくる。
 私の前を覆い尽くす様に襲い掛かってくる円盤は大きく迂回するしか躱す手段は無く、例え躱せたとしても、その後ろに控える40個の泡から立て続けに円盤を出されたら対処は出来ない。
「――そんな地球に、アイラブユー」
 何の脈絡も無くそんな事を呟くのは、相手を幻惑させる為の心理作戦。そしてその場で、いきなりうつ伏せに倒れ込む。私を狙って高度を変えてくる円盤は、並び立つ白銀と衝突した。
 チュイン―――――チュイン―――――チュイン!!
 地球上のあらゆる物体より硬い白銀は、どんな攻撃でも絶対に破壊される事は無い。物体の運動エネルギーが攻撃力の全てである水の円盤は、その運動エネルギーが相殺されればただの水に戻るだけ。回転速度と運動の消失は比例するので、瞬く間に円盤は壊れて弾け飛んだ。
 ビシャビシャと水飛沫が飛び、髪の毛も制服もびしょ濡れになってしまう。すぐに立ち上がって、愛する地球にしばしの別れ。
 美雪は思考を幻惑され、攻撃のタイミングを逸していた。追撃の円盤攻撃が一時的に止まり、その隙を逃さず白銀で泡を破壊していく。地面が水浸しになってしまったけど、再び攻撃に転ずるだけのエネルギーは無いので放っておいても大丈夫だろう。
 相手に考える暇を与えない為にも、すぐに前へと駆け出す。私の接近を嫌っているのか、美雪は一定の距離を置いてこちらのペースに合わせて移動している。
 三つ又に別れた水路を右へ曲がり、その先にある筈の水源地を目指す。美雪もこの先に何があるのかを知っている為か、何も攻撃を仕掛けてこない。それどころか水源地で待ち伏せしようと考えたらしく、一気に私を追い越して行った。
 ――ザバンッ!!
 水源地に美雪が進入した瞬間、大きな水音が辺りに響き渡った。何が起こったのか判らないまま水源地に入ると、宙に浮いた美雪が、ずぶ濡れとなった蓮見に背後から抱き付かれているのが見えた。
「……捕まえたぜイルカ女。水路に仕掛けたトラップには、さすがに気付かなかった様だな」
 美雪と共に空に浮いた蓮見が、美雪の右脇から右腕を入れ、首に食い込んだ左腕で裸絞めを極めていた。二人は溜め池と水路の合流地点の3メートル上辺りに浮いていて、その周りには透明のワイヤーが縦横に張り巡らされている様だった。ワイヤーは水源地を囲む様にして植わっている木々の幹に括り付けられていて、複雑な組み合わせによって水中の美雪を捕縛するワイヤートラップとして機能する仕掛けだったらしい。
 蓮見と美雪はワイヤーによって繋がっていて、美雪を引き上げる際には蓮見自身の体重と、錘となるいくつかの石が用いられたのかも知れない。頚動脈を圧迫され、苦しげな顔を見せながらも美雪が口を開く。
「……くッ! まさかこれ程の短い間に、こんな大掛かりなトラップを用意するなんて!」
 蓮見と別れてから30分位しか経っていないのに、確かに異常に手際がいい。トラップの効果は地味だけど、それを実現するまでに要する手順が実に多い。水深5メートルの真ん中辺りを美雪が潜航していたとして、水深2メートル50センチから水上3メートルまで引き上げる為には、少なくとも水面から同じ長さの余裕が無くてはならない。
 それでも目の前の結果を見れば、ちゃんとそこら辺は吸収した上での事だろうから深く考えてもしょうがないし、何よりトラップの解明なんていちいち面倒臭い。
「……蓮見ってまさか、抱き付き魔だったとか?」
「アホか。化け物相手でどうやったら勝てるか考えたら、絞め落とすってのはどうかと思ったんだよ。首がある以上、絞め技が効かないなんて事は無いだろう」
 蓮見は私の茶目っ気に付き合うつもりは無いらしく、極めて真面目な解答を口にした。
 だけど、その考えには素直に感心させられる。
 絞め技は通常の攻撃手段とは違い、相手に外傷を一切与える事無く無力化する事が出来る。『神』に類する連中はどれだけの傷を負おうともたちまち回復してしまうので、人間が普通に攻撃を加えても通用しない場合が殆どだ。
 だけど頚動脈の血流を低下させ、脳が酸欠状態となって気絶するのだから、これは傷にはならない。殺す事は出来ないにしても、一時的に行動不能となるのであれば充分に効果的だ。つまり人間の攻撃手段の中で『神』に通用する数少ないものが、絞め技なのだ。
「……ふふ、ふふふっ――あははははは!!」
 突然、美雪が心が壊れたかの様な乾いた笑い声を上げた。
 酸欠状態であるにも関わらず、随分と酸欠に強い女だと思ったけど、よく考えたらイルカなどの水棲哺乳類は心肺機能が高い筈だから、美雪にも同等の身体能力があるのだろう。
 それでも、このまま裸絞めを受け続ければ気絶してしまう筈。
 あくまで冷静に状況を見ているからか蓮見は動揺する事無く、さらに腕を美雪の顎下に食い込ませる。
「さっきの水圧カッターがあるから余裕ってか? やれるもんならやってみろ。ちなみにこっちのワイヤーは金属製、あっちにある変電施設に繋げてある。こいつを引っ張れば、お前のワイヤーに高圧電流が流れるぞ」
 水圧カッターを発生させる為に身体に水を集める瞬間に、高圧電流で感電させる。既に対策を用意しているあたり、さすがに蓮見は手抜かりが無い。蓮見本人も感電するのではと心配になるけど、そこら辺も考えて何かしらの脱出手段を持っているからこその余裕なんだろう。
 いくら『神』とは言え、高圧電流を喰らえばかなりのダメージを受ける。さらに動きが止まる事で、私の攻撃を当てるのが容易になる事だろう。
 それでも美雪は、乾いた笑いを続けた。
「あはははは! いい! いいわよ、あなた! 人間如き身で、よくもここまで私を追い込んだものだわ!!」
 何か吹っ切れたのか、今までの言動とはまるで違う壮絶な壊れっぷりに、思わず軽く引いてしまう。さすがの蓮見も、その狂った笑いに嫌悪の表情を浮かべる。
「……お前の電波っぷりに、わざわざ付き合う義理は無いな。悪いがこれで、終わりにさせて貰うぜ」
 ギリギリと美雪の喉に食い込む腕に、さらに力が入る。おそらく酸欠状態の影響で、美雪の思考が鈍っている為に狂った様な反応をしているのだろう。苦しみ悶えて顔を歪ませつつも、美雪の口元から笑い声が漏れ続ける。
「うふふ、たまらない、たまらないわっ! 殺してあげる! 殺してあげる!!」
 最早思考の冷静さは完全に欠落してしまったらしく、美雪は無謀にも自身の周りに水飛沫を集め始める。あんな状態で内側に水圧カッターを発射したら、蓮見のみならず美雪自身をも貫いてしまうだろうに、そんな事すらどうでもよくなっているみたい。そんな美雪の暴走に、蓮見は奥の手を使わざるを得なくなる。
「ちっ! 仕方ねえなぁっ!!」
 蓮見の右の膝が折り曲げられ、何かがピンと外れる音がした。さらに両腕が美雪の首から外され、蓮見は両手を大きく横へと拡げる。水圧カッターと同時に、蓮見の身体が上空へ舞った。
 バチィン!!
「――ぎぃいいいッ!?」
 耳障りな破裂音と共に、美雪の身体から火花が飛び散る。次に水圧カッターが美雪の身体を何度も貫き、全身が陸に上がった魚の如くビクンビクンと跳ね回った。蓮見の身体はいくつかのワイヤーによって引っ張られ、大きく張り出した太い木の幹に着地する。
「崎守ッ! 今だッ!!」
 美雪の動きが止まっている今がチャンスだと、蓮見から指示が飛ぶ。
 即座に『死角』から白銀を引き出し、リカーブに番える。だけど私の立ち位置からは美雪の背中は見えず、裏へ回り込む為に駆け出そうとした。
「んぎっ! ぎぃっ! ――ラフロイグ・エス!!」
 シュバッ!!
「うわっ!?」
 突然、私の眼前に水流が発生する。咄嗟の判断で大きく後ろへ跳び、危うく難を逃れる。
 だけど、それだけでは終わらなかった。
「……ちっ、分断されたかよ」
 舌打ちと共に、蓮見が悔しげに呻く。
 私の前には水の壁。
 しかし壁は何処までも続いていて、両端が見えなかった。高さにして20メートル程の水壁を前に、私はどうする事も出来ない。水流による慣性は容易に私を跳ね飛ばすだろうから、前へ進む事は叶わない。ならば迂回するしか無いのだろうけど、私の『勘』は水源地が完全に分断されているのだと報せている。
 一方で美雪を貫いた水圧カッターは、実はただの自爆では無かった。美雪の身体を捕縛していたワイヤーは切断され、さらに周囲のワイヤーもいくつか切られていた。それでも溜め池に張り巡らされているワイヤーはまだまだ数が多く、そんなに悪影響は無いとは思う。
 感電状態からも脱した美雪は、そのまま水の中へと飛び込む。
 私としてはせめて蓮見を援護出来たらと思い、白銀で水壁の向こう側に『霧切舞』を陣立てる。蓮見は水面から飛んでくる水圧カッターを、ワイヤーの上を器用に走りながら躱していた。
「くそッ! 化け物とガチで殺る事になるなんてな!」
 強力な攻撃手段を持たない蓮見では、『神』に勝つ見込みはゼロに近い。元気な間は躱し続けていられるかも知れないけど、その内疲労によって回避する事が難しくなってくる。
 だけど蓮見は、口元にふっと笑みを浮かべた。
「――ふっ。それじゃあ、干上がらせてやるぜ!!」
 そんな事を呟いた瞬間、蓮見の右手が何かを握り込んだ様に見えた。
 ――ズドン!
 遠くで何かが爆発したらしい。
 どうやら何処かに爆発物でも仕掛けていたらしく、どんな意図があるのかまるで判らない。だけど水路を見ると、何だか微妙に水位が下っている様に見える。
 そんな私の疑問に、蓮見の声が応えた。
「水源地を管理する、給水ポンプと排水弁を爆破した。さらに水路に設けられている水門の昇降装置も爆破したから、すぐにこの溜め池は干上がるぜ」
 いや、だからアンタは何者だよって突っ込みを入れたくなる。
 ワイヤートラップだけでも相当の労力が必要だっただろうに、それに加えて何ヶ所かに爆発物を仕掛けるなんて、いくら何でも傑出している。
 みるみる内に水位は下り続け、水位1メートルとなった頃には美雪も潜水を諦めた。
「いいわぁ! いいわよ! 昂ぶって来たわ! 昂ぶってきたわ〜っ!!」
 何だか全然、堪えていないみたい。
 それどころか壊れっぷりに拍車が掛かっているみたいで、もしかしたらこれが美雪の本性なのかも知れない。
 ゆっくり歩いて溜め池から出て、陸に上がって私の方を見る。
「ふふっ! あなたはそこで見ていなさいっ! 私がこの男を八つ裂きにするところを!!」
 恍惚とした様な、酔った顔が気持ち悪い。
 バロールやケツアルコアトルは強敵だったけど、この美雪は別の意味で危険な相手に思える。
 何と言うか、過剰に感情を昂ぶらせているのが気味が悪い。
 本能的な嫌悪感とでも言おうか、一切の理性を排除した有り方に空恐ろしさを感じてしまう。
 ワイヤーの上から飛び降りた蓮見が、美雪を前にケータイを取り出して電話を掛ける。
「――もしもし、伝一郎さんかい? 言われた通り、ピンチなんで連絡入れたんですけどね。え? はあ、何だかよく判らないっす。いやいや、まあそうなんですけどね。でも手元にゃ無いんですよ? こっちに送るって、どうやって送ってくれるんですか? だってそっちは神社にいるんでしょ? はあ!? ちょっと!!」
 いきなり電話したかと思うと、どうやら爺ちゃんと何らかの話をしたみたいだ。まるで理解出来ない行動に、美雪も僅かに戸惑う。
「ふふん? こんなに私があなたを思っているのに、ほったらかしで電話? ひどいわ、ひどいわっ! 今すぐ殺しちゃう! 殺しちゃうっ!!」
 微妙にズレた会話をしている様な気もしないでも無いけど、怒りをあからさまに見せる美雪が左手に剣を出現させる。それを嫌悪の顔で見た蓮見が、右の掌を突き出して制止する。
「何だよバカ女、勝手に一人で盛り上がってんじゃねえ。ったく、人間やってた時は理知的だったのに、化け物になった途端、頭のネジが緩みっ放しになるなんて理解出来ないぜ」
 あからさまな挑発に、美雪の顔が何故か喜色に染まる。
「くふっ! あはは!バカ扱い! 人間如きにバカ扱いッ!! いいわ、いいわよッ! もう我慢出来ないっ! 殺しちゃってもいい? どんな殺し方が好み?」
 益々エスカレートする反応に、蓮見は溜め息を吐いた。
「……ふう。満を持しての俺の見せ場が、何でこんなのの相手な訳かね。あ〜、いかん。頭痛くなってきた。伝一郎さん、早くしてくんねえかなぁ」
 ウチの爺ちゃんが、何の関係があるんだろう。
 さらに馬鹿にした様な態度を取られ、美雪は剣を構えて喜悦に身を震わせた。
「んふふっ! もう殺しちゃってもいいわね!!」
 ――そんな時だった。
 私の『心眼』が、或いは『勘』が、もしくは『虫の報せ』なのか、兎に角、遥か天空より飛来する物体を捉える。捉えると言うよりは『予感』、或いは『予兆』と言う方が近い。
 ――ザシュッ!
 全くの初めての感覚に打ち震えていると、『何か』が空から飛んできて、蓮見の足下に突き刺さった。
 それは――一本の刀だった。
 刀身は三尺(約90センチ)余り、日本刀の中では『野太刀』に分類される、通常の太刀よりも長い刀だ。
 まるで理解の範疇を越えた唐突な出現に、美雪の動きが止まる。
「……なぁ〜にソレ〜? かたなぁ〜? 刀ですって? あはっ、あはは! 何でかしら? 変よ、変なのよ!!」
 対する蓮見は、何だか凄くイヤそうな顔で刀を見ていた。
「……あの爺さん、何でこんなもんを送り付けてくるのかね。そりゃあピンチだって言ったけど、俺はコイツだけは、握りたく無かったんだ。でもしょうがないか。ああ、チクショウ! おいバカ女ッ! これから俺の人格が変わるからな! 変わったからってツッコミいれんなよ! 崎守もだ! 華麗にスルーしてくれよ!!」
 蓮見が何を言いたいのか、全く判らない。
「……まあ、別にいいけど。何だか流れに付いていけないし」
 正直、美雪の壊れっぷりに引いてた関係で感性が鈍っているかも知れない。
 一方の美雪は、さらに拍車の掛かった壊れっぷりを披露した。
「あはっ! あははっ! 変わる? 変わっちゃうの? いやぁ〜ん、ダメよっ! 殺す前に変わっちゃダメよっ! 変わるんなら殺した後にしてえ!!」
 殺したら変わんないって。
 蓮見は盛大に溜め息を吐いた後、おもむろに野太刀を握って両手で右肩の上に構え、左半身で低姿勢を取った。
「……お、おおッ! おおおおおおおおおおおおおッ!!」
 次の瞬間、蓮見の顔が壮絶な程に苦痛に歪み、地の底から響く様な咆哮が喉奥から搾り出された。
「……まさか、蓮見も壊れちゃった訳?」
 美雪だけでもこっちは一杯一杯なのに、この上、蓮見までおかしくなるなんて勘弁して欲しい。しかし魂の咆哮はピタリと止み、蓮見は顔を引き締めて力強い目付きで美雪を見据えた。
「――桃源より来れり我が魂。久方ぶりかな現し世、また我在りなん。ならば一花、其所に彩りを添えらん。我が名は市郎(いちろう)。多田市郎と申す。号は岩流(がんりゅう)なり。兵法を心得る者なり」
 そこにいたのは、蓮見とは思えない存在感を持った『別人』だった。


第九話・乙姫伝説
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