Sick City
第二章・牛頭魔神

 ――ミノタウロス。
 ギリシャ神話に登場する、悪名高き化け物。
 伝承によれば、ミノス王の妃と牡牛の間に生まれた人身牛頭の怪物で、ミノスの命により名工匠ダイダロスによって建設されたと言われる迷宮ラビュリントスに幽閉され、アテナイの14人の少年少女が生け贄に供されたという。
 しかし、英雄テセウスによって退治されたのだと。
 しかし俺は、妙な違和感を感じずにはいられなかった。
 大男はどう見ても東洋系の人種だった。それがどうしてギリシャ神話のミノタウロスなのか?しかしその疑問は、すぐに解ける事になった。
「ふん、それはまた昔懐かしい名だな。今では牛魔王などと呼ばれているがな」
 牛魔王とは確か、『西遊記』に登場する妖怪だっただろうか。
 考えてみればミノタウロスと牛魔王、表現されるその姿はとても似ている。
 もしかしたら両者は同じルーツなのかも知れない。
 そんな考えを俺がしているのが判ったのか、エリカが解説を加える。
「牛魔王というのはよく知りません。しかしミノタウロスは神々の系譜において、比較的『原初』に近い神族でして、『獣神』という少し特殊な神です」
「アレも神の一種なのかよ」
 化け物を前にしてそれでも神だと言うのは、人間から見れば理解し難い。
「説明不足でした。元々神というのは太古の昔、この地上から姿を消した超古代文明の生き残りの成れの果てです」
 エリカの言葉は衝撃的な話なのかも知れないが、そこらへんの事は、実はアカシックレコードにアクセス出来る俺には判っていた事だった。
 実はこの地球には、今の俺達の文明の前に三度の文明が存在した。
 しかし文明の限界、科学技術の発達によって地球環境の悪化を招き、そして人としての進化の限界すらも訪れ、文明の崩壊を前にしてこの世界を脱出して、新たな領域へと身を置く事を選んだ僅かばかりの者達がいた。
 それが始まりの神々、『原初の系譜』だ。
 その後も環境が回復した地上に新たな文明が栄え、そして歴史は繰り返す事になった。
 そうやって三度、神の系譜は誕生している。
 ちなみにエリカの属する北欧神話は、一番最後の第三世代に分類される。
「原初の力を有する神格は、強力な『変質能力』を有しています」
 変質能力というのは初めて聞く単語だった。
「何だそりゃ」
 アカシックレコードにアクセスすれば色々判るのだろうが、俺はあくまで『心眼』の延長上、特定条件下でおいてのみアクセス出来るだけであり、例えばネイティヴアメリカンのシャーマンなどの専門家のように自由度の高いアクセス権限がある訳では無いので、図書館のように知りたい事を知りたいから閲覧するような使い方は出来ない。
「物質を自由に変化させたり、生み出したりする力。そしてその逆、破壊する力でもあります。一番古い神性である第一世代の神々は、最もその術に長けています。あの外見も変質能力で得たものかと思われますが、ミノタウロスは確か第二世代――おそらく、己の肉体のみ作用する力かも知れません」
 正直、俺には神の世代がどういった差異として表れるのか判らないが、エリカの説明から考えると有する力や技術に何かしら違いがあるようだ。
「何をごちゃごちゃと言ってやがる。神だ何だの俺には興味の無い話だ」
 標的とする俺が自分を無視してエリカと話をしている状況が気に食わないのか、口を開いたミノタウロスは苛立ちを見せた。
 それをエリカが制する。
「貴方は一体、何の為に戦うのですか? 私達はゲームと言われ、巻き込まれただけで、望まない戦いをするつもりはありません」
 確かに、俺達はゲームとやらに参加するつもりなど無く、単に俺達を付け狙うであろう悪魔との契約者を特定して、何かしらの対処をしようというだけの事だった筈だ。ここでミノタウロスと戦う必然性は、全くと言っていい程無いのだ。
「戦いこそ俺の存在理由、貴様らの事情など知らん! さあ、無駄口はもう終わりだ!!」
 やはりミノタウロスを止める事など出来そうにない。
 急激に高まるミノタウロスのエネルギー。
 しかしエリカは俺とミノタウロスの間に立ち塞がり、両手を拡げて声を張り上げる。
「この人は人間です! どうしてもと言うなら私と戦いなさい!!」
 それを聞いたミノタウロスは、しかし興味なさげに一瞥をくれた。
「女などに興味は無い! 貴様が神だろうと、真の闘争本能を持つのは男だけだからな!!」
 ミノタウロスの言い分には一理ある。
 差別的な考え方と取られかねない話だが、事実、男と女では脳のロジックに明確な違いがあり、それは戦いの女神であるワルキューレと言えども同じ事なのだ。
「――エリカ」
 俺は諦めたような口調で、エリカの背に声を掛けた。
「最早回避不可能だ。ヤツが快楽の為に戦うのか、それとも武人として武を競う事に喜びを感じるのか、それを見極めさせてもらう。俺を止めるのかどうかはエリカの判断に任せる」
 そこまで言って俺は構えを取った。
 そんな俺の表情に何を感じたのか判らないが、エリカは哀しげな表情を一瞬見せた。しかし、すぐに強い意志の籠った眼で頷きを返す。
「判りました――でも私の我慢が続く間だけです。我慢が出来なくなったら、無理にでも交代させて頂きます」
 そう言ってエリカは俺の前から退いた。
「行くぞぉおおおおおお!!!!!」
 そこへ突然、ミノタウロスの突進が始まった。
 力強く大地を蹴り――地響きを伴った突進が来る!
 周りにいた野次馬達は恐れ戦慄き、ただ喚き散らすだけで逃げようという考えすら起きないらしい。
 俺の『無拍子』による一歩に比べれば遥かに遅い突進だが、それでも常人を遥かに超えるスピードで一瞬にして俺を射程圏内に収め、その強靱な肉体の一部である右の剛腕から突きを繰り出す。
「ふんッ!!」
 圧倒的なプレッシャーを引きちぎる様に、俺は一気に大地を蹴って後ろへと反転運動に入る。俺の身体がミノタウロスの視界から消え、横から回り込むようにミノタウロスの背中を取る。
 だが全てのポテンシャルが桁外れに増大したミノタウロスは、今まで不可能であった反応をした。大地を蹴りつつ回転し、のけ反って反動を付けてから、一気に頭部を振り降ろしたのだ。
 まずい!!
 3メートルを超え、自重も1トンを超えるミノタウロス。
 その肉体から生み出される発勁は想像を絶するものであり、そんなものを喰らえば、ひとたまりも無い事は明白だ。
 俺は咄嗟に右足を跳ね上げ、左足で大地を蹴ってからミノタウロスの頭を右足で蹴った。
 そこへ強大な発勁を伴った頭突きが俺の蹴りと反発し合い、空中の俺の身体は、ミサイルの様に爆発的なスピードで後方へと吹っ飛ぶ。
 錐揉み回転して威力を殺し、30メートル近く吹っ飛ばされて地面を削りながらも、何とか着地した。
 その間にもミノタウロスは追撃に入っており、地響きを轟かせながら俺に接近していた。
 巨大な拳が繰り出される。
 明らかに以前よりも威力、スピード共に増しており、少しでも身体を掠めようものなら大きな痛手を負う事になる。
 それでも俺は、身体ごと軸をずらす事で躱し続ける。
 お互いに近接戦闘、しかしリーチは圧倒的にミノタウロスに分がある為に、俺はかなり不利な状況だ。
 拳の差し合いでは俺に攻撃する余地は無く、逆にミノタウロスも俺を捉える事が出来ない。ならば隙を突いて強力な一撃が来る事は明白、それはどちらにとっても同じ事が言えた。
 そもそも肉体のポテンシャルにおいて相当劣る俺に不利なのは当たり前で、まともにやっていては状況はさらに悪くなっていく一方。
 ならば頭を使って、状況を打開していく他無い。
 滑る様な足捌きで連続回避運動を可能としていた俺の足元、そこに障害物でもあったかの様に、バランスを崩して見せた。
「貰った!!」
 当然、それをミノタウロスが逃す訳が無い。
 おそらく得意技なのか、ここでも頭突きを放ってくる。だが――俺はそれを待っていたのだ。
 大きく踏み込みつつ放つ頭突きは、確かに躱すには難しく、威力も信じられない程のものだ。しかし最大の攻撃手段であるのと同時に、頭を敵に向ける事自体は相当のリスクもある。
 もしもその踏込みを、こちらが無力化する事が出来たらどうなるのか。
 俺はフェイントが成功した事を確信し、ミノタウロスの踏み込みに合わせて間合いの詰まった同じ距離を、後ろへと滑る形で確保する。これでミノタウロスの頭突きは丁度、俺の目の前で寸止めの形になってしまう。
 嫌な予感でもしたのか、ぎょっと眼を丸くするミノタウロスだったがもう遅い。俺の攻撃を予感したのか、身体を起こして弱点ともなり得る頭部を引き起そうとする。引き起すのと同時、片足立ちになりながら、左の拳でショートアッパーに似た技が繰り出される。
 そこへ俺の右足が飛ぶ。
 ガスン!!
 ミノタウロスの目の前で、後ろに引いていた左足を起点として反転、左のショートアッパーを軸をずらす事で回避し、高く跳ね上がった右の踵が、ミノタウロスの後頭部に巻き込むような形で振り降ろされた。
 しかし自重1トンを誇るその巨体はびくともせず、身体を起こそうとするミノタウロスに右の踵でぶら下がりながらも、身体を捩って左脚を跳ね揚げた。
 左脚はミノタウロスの首筋にヒットしたものの、まるで丸太の如き太さを持つ為にびくともしない。
 だが、これで終わりでは無い。
 右の踵と左脚によってミノタウロスの頭部を挟み込み、そこから下へ身体を振って捻り込みつつ、上へと身体を持ち上げる。右踵と左脚、それぞれの打撃によって生み出された慣性力を利して、さらに高速回転による捻り運動。いかに太い首を持とうとも、人体の構造上の問題により、この捻る動きに抵抗する事は不可能。
 ゴキリ!!
 ミノタウロスの太い首が嫌な音を立て、その頭は上下逆向きになった。
 これぞ天仰理念流絶技・吊り天舞。
 首の骨を折り、呼吸すら止める打撃と絞め技、関節技の複合技。
 肉体を硬気功によって守られ、鉄壁の防御力を誇るミノタウロス相手に通常打撃は殆ど通らない。しかし硬気功とは、呼吸によって内側からの反発力を用いて鉄壁の防御力を得るのであって、人体の構造そのものの弱点を克服する事は出来ないのだ。
 つまり、関節技に対しては無力と言える。
 さらに付け加えるならば、拳よりも威力が大きい頭突きは、同時に弱点を敵にさらけ出す様なものである。その弱点を補う為のショートアッパーだろうが、当らなければその意味も無い。
 吊り天舞という技はさらに続きがあり、俺はスタンディング首四の字の様な形となった状態から両足の戒めを解き、未だ上方向への慣性が残っている事を利して、ミノタウロスの頭上へと飛び上がる。空中で海老反り反転の状態から力を溜め、思い切り屈伸させた左の踵で、ミノタウロスの上を向いた顔面を踏み付ける。
 ズドン!!
 天仰理念流絶技・踏脚(とうきゃく)。
 本来は単体で使う技であり、相手の頭上へと一気に跳び上がって充分に折り畳んだ脚と全身のバネを最大限利用し、一気に踵で脳天を踏み潰す技だ。この踵蹴りだけで、普通の人間を即死させるだけの威力がある。衝撃の反動を利用して、バック宙でミノタウロスの左側から着地した。
 辺りを静寂が包む。
「――凄い」
 じっと状況を注視していたエリカが呟く。しかし本人にも判っているのだろう、すぐに顔を引き締めて喚起を促す。
「でも相手が神である以上、それでは足らない――」
 その通りだ。
 肉体的には、確実に死を与えた筈のミノタウロス。
 しかしメフィストフェレスと戦った時の再現とでも言おうか、その捩曲がった首がすぐさま元の状態に戻り、ゴキゴキと骨が接合するような音を立てて完全に回復を果たした。
「……ヴフゥ〜! やるじゃないか」
 まるで何事も無かったかのように、そんな事を言う。
「その若さでマスタークラスとはな。ここで殺すのは正直惜しいが、俺と出会った不運を呪うがいい」
 強烈な殺気を伴って、ミノタウロスが一歩前に出る。
「――そこまで!!」
 その時、ついに我慢が出来なくなったエリカが割り込んできた。
「試合と考えれば貴方の負けです。でも殺し合いをすると言うのならば、ここからは神の領域です。貴方のお相手は私が引き受けましょう」
 エリカは口調こそ静かなものだったが、むしろその心情は推して知るべし、だ。
「貴様などに用は無いと言った筈だぞ」
 しかしミノタウロスはエリカに一瞥すら与えず、さらに一歩前へと出る。それでもエリカは退こうとはしない。
「フェアな戦いではありません。純粋に強い相手を望んでいるならば、私と戦えばいい。それでもこちらを無視して人と戦おうとする貴方に、正当性はありません」
 夜空にオーロラが出現する。それを見た野次馬達がざわめく。
「俺が満足出来る相手は貴様じゃない。邪魔するな」
 さらに一歩。
「勝てる勝負しかしない貴方は、憶病者で卑怯者。叩ける相手しか叩かない、現実を捩じ曲げて己の都合しか考えない。なんて次元の低い存在なのかしら。そんな者に、神を名乗る資格なんて無いわ」
 怒りがさらに増したのか、エリカの普段の丁寧な言葉遣いが徐々に崩れてきた。次の一歩を踏みしめると同時、とうとうミノタウロスはエリカへと顔を向けた。
「――何だと?」
 殺気を向ける相手が、俺からエリカへと変わった。
「ワルキューレとは勇者の守護者。女であるワルキューレが何故、戦う意志を持てるのかと言えば、それは勇者の生き様から戦う勇気を分けて貰っているからです」
 天上より舞い降りた電磁波がエリカの脳を直撃し、膨大な情報が統合される。光を放ってエリカの肉体が霧散し、瞬時に再構成。眼も眩む程の光が消えて視界が戻ると、そこには鎧兜に身を包み、剣と楯を持った戦乙女ワルキューレが立っていた。
「ワルキューレの戦う理由、それは勇者の生き様を守護する事。卑しい貴方に勇者と戦う資格はありません」
 強大なエネルギーを発散しつつ、エリカは右手の剣をミノタウロスに向けて突き出し、そう宣言した。対して、面と向かって宣言されたミノタウロスは、怒りの瞳を滾らせながら荒い息を吐く。
「卑しい、だと? 俺の戦いを愚弄する奴は許せん――いいだろう、貴様と戦ってやる!!」
 ついにミノタウロスが、エリカに向けて突進をした。
「それこそこちらの台詞! 勇者を愚弄する貴方を許せません!!」
 エリカの瞳に力が宿り、視線の先に強力なエネルギーが発現する。大気が一瞬で極限まで圧縮され、そして開放されると途端、爆発が起きる。
 ズドン!!
「何ッ!?」
 爆発はミノタウロスの胸板を直撃、自重1トンの肉体が後方へと吹き飛ぶ。
 大気の圧縮による摩擦によって膨大な熱量が発生し、圧縮状態が開放されると爆発力を発揮する。
 まるで、小規模の核爆発のようなものだ。
 これはエリカの持つ能力――念動力だ。
 戦闘に特化したワルキューレは、」保有する能力も攻撃的なものに集中しており、超能力の類いにしても俺のような超感覚よりも、外部に干渉する念動力を得意としている。
 爆発によってミノタウロスの突進を食い止め、さらにお互いの距離が離れる。近接戦闘に特化したミノタウロスと有利に戦うに当たって、エリカは遠距離での戦いを選択したという事だろう。右手の剣で空中に文字でも描くかのように何度か振るい、何事かを唱える。
「リヒトドルック・マハト・アン・オルドヌング! ベエンディグング・フェアフォルグング・プログラムス――アオス・シュトーセン!!」
 エリカの目の前に、突如として出現した6つの光球。エリカが剣を横薙ぎに払うと同時、光球の一つがミノタウロスに向かって放たれた。
「甘いわ!!」
 それをミノタウロスは余裕で回避する。しかし光球は突然進路を変え、回避した筈のミノタウロスに直撃した。
 ズバン!!
「ぐおッ!?」
 強烈な光が爆発力を生み、続けて二発目、三発目と次々に直撃する。
「ゲハイマー・フェーイヒカイト! ――ポラールリヒト・ディスケッテ!!」
 さらにエリカは左の楯にオーロラと同じ現象を発生させ、円盤状に光をまとめてアンダースローで射出した。虹色の円盤が、光に包まれたミノタウロスにぶち当たる。
「もう一つ!!」
 振り上げた楯に再度オーロラを充填し、今度はオーバースローで円盤を放つ。強烈な電磁波による光の明滅に包まれたミノタウロスに、さらに円盤が吸い込まれるように当たった。
「これで終わり――リヒトドルック・シュヴェーアト!!」
 そう叫んだエリカが剣から強烈な光を発生させ、頭上から一気に振り降ろす。線上に伸びた光の剣閃が、距離など無関係と言わんばかりにミノタウロスのいる辺り、未だ光に包まれた空間を切り裂く。
 その剣閃によってミノタウロスを包んでいた光が霧散し、その姿が現れる。
「――!?」
 今度はエリカが驚く番だった。両腕で自身を庇うミノタウロスに、外傷は全く見当たらなかった。
「ふん――痒いな」
 そう一言呟くミノタウロス。
 硬気功によって鉄壁の防御力を誇るミノタウロスには、全く効いていないのだ。もしも相手が人間であれば、いくら硬気功でもこうはならない。しかし膨大なエネルギーを持った神が使う硬気功は、核の直撃すら完全防御するだろう。
 この結果を見ると、両者はお互いに最悪の相性だと言える。ダメージを与えられないエリカと、接近出来ないミノタウロス。それでもエリカには、切り札がある。
 ――グングニル。
 あの槍ならば、さすがに硬気功を以てしても防御するのは難しい。空間攻撃であるグングニルにとって、防御力の壁は無意味に等しいからだ。概念的な攻撃手段であるので、『その空間』を貫いた事実が出来上がるグングニルは防御も回避も不可能な、まさに最強の必殺攻撃。
 エリカも同じ事を思ったのだろう。決意を込めた眼で、ミノタウロスを凝視する。
「どうした? 貴様の力はその程度か。息巻いていた割には大した事は無いな」
 今までの攻撃を完全に防いだ事で余裕が生まれたのか、相手を小馬鹿にするような態度でエリカを見据える。どちらにせよ、グングニルこそエリカの最大の攻撃手段である以上、最終的にはやる事にそう違いは無い筈だ。
 早いか遅いかの違いだけ。
 エリカは剣を、左腕の楯の裏側に装着された鞘に収める。それはグングニル使用の決断をしたという事だ。
「イッヒ・デーン・ヴェーア・イスト! デア・ケーニッヒ・ハット・ディー・リーニエ! ディー・ドゥルヒ・ダス・ウニヴェルズム・ロイフト!!!!」
 詠唱と共に、頭上へ光の槍が出現する。
「――む!?」
 明らかに今までよりも強いエネルギーに大気が震え、それを感じ取ったミノタウロスが身構える。
 膨大なエネルギーが収束し、光の槍が完成する。
 右手の掌を頭上に掲げたエリカが、グングニルをコントロールする為に極限まで集中力を高めていく。グングニルはその性質上、エリカの持つ力の大部分を傾けなくてはならない。一旦放てば確実に相手を仕留めるが、それまでの段階に、それ相応の労力を必要とするのが欠点と言えば欠点か。
「――グングニル!!」
 それでもグングニルは完成し、エリカはミノタウロスに向けて一気に放つ。
 あまりのスピードに、ミノタウロスは回避を諦めて防御に専念しようと仁王 立ちになった。
 ガスッ!!
 果たして、グングニルはミノタウロスの左胸を貫通した。
「――勝った」
 勝利を確信したのか、エリカは安堵したような声で呟いた。
 しばしの沈黙。
 野次馬連中を含め、誰しもが動きを止めたまま静寂の中で、視線はミノタウロスに集中している。やがて、グングニルに左胸を貫かれた格好で仁王立ちのミノタウロスの顔に、不吉な笑みが浮かんだ。
「――ふん」
 何かおかしかった。
 メフィストフェレスを倒した時は光を放って肉体だけで無く、本体であるエネルギーすら分解した。それが今回、左胸を貫通したまま何も変化が起こらないのだ。勝利を確信して放った己の攻撃が不発に終わったと解釈せざるを得ない事を悟ったのか、エリカの顔色が一気に蒼ざめる。
「滅殺プログラムが起動しない!? 一体どうして!!」
 エリカの焦りの声に、俺は思考を巡らせる。槍で貫いたところまでは、メフィストフェレスの時と変わった事は無かったと思う。今の台詞から考えられる事は、グングニルとは肉体を貫いた後に、何かしらの結果をトリガーとして本体であるエネルギーそのものを消滅させる為の仕組みを備えているのでは無いか、と言う事だ。
 それならば、この不発の原因はミノタウロスにあるのかも知れない。そこで俺はグングニルの突き刺さった左胸、正確には心臓そのものが動いているのかを『心眼』で確認してみたのだが、しっかりと心臓は止まっていた。
 ならば一体何だというのか――偶然或いは必然なのか、俺は『心眼』による深い感知を維持したまま、ミノタウロスの右胸に動くもう一つの心臓を認識した。
「エリカ! ――ミノタウロスの心臓は二つある!!」
 俺がそう叫ぶとミノタウロスが高笑いをした。
「ガッハッハッ!! その通り、俺の心臓は右胸にもう一つ存在する。よくぞ見破ったと褒めてやる」
 本人が自らその事実を肯定したと言う事は、おそらく負ける気がしないと思っての余裕の現れなのだろう。しかし心臓が二つ存在するとは、まさに化け物。
「一度、肉体に死を与えなくてはならないグングニルが通用しないのも当然――ですか。いいでしょう。ならばこちらも相応の手段で対抗します」
 グングニルが通用しない事を認めたエリカ。それを認め、わざわざ明かすのはまだ奥の手があると言う事だ。だがそれを、ミノタウロスが許す筈が無い。
「――ッ!? グングニルが抜けない!?」
 ミノタウロスの左胸を貫いたまま、そこに埋まった状態のグングニルを引き抜こうと念動力を働かせたエリカだったが、何度試みても抜けない。
「今度はこちらの番だ!!」
 ミノタウロスがグングニルを左胸に固定したまま、エリカに向かって突進を開始した。対するエリカはグングニルにエネルギーの大部分を使用している為か、動きに精彩を欠いていた。
「ドリンゲンデ・フェルティッヒ・ヴェーアデン・モードゥス・フュンフ! グングニル・ツヴァングス・エンデ・プンクト!!」
 エリカの声と共にグングニルの光が消滅し、ミノタウロスの左胸から消え去った。だが目の前にミノタウロスの巨体が迫り、頭部の角を用いたあの頭突きがエリカを襲う。
「シュネレ・エントヴィックルング!!」
 咄嗟に左腕の楯を構えると光の紋様が出現し、ミノタウロスの頭突きと干渉し合う。しかし通常の打撃とは違い、発勁による衝撃が大気を伝播し、エリカの身体を後方へと弾き飛ばした。
「うあッ!?」
 光の紋様が弾け、エリカは後方に吹き飛ばされたものの空中で制止した。
「ちッ!空へ逃げたか」
 手が出せないのか、ミノタウロスは空中へ退避したエリカを睨み付けて舌打ちをした。
 エリカはいい判断をしたと俺は思った。
 どうやらミノタウロスは空を飛ぶ事が出来ないらしく、これなら一方的な攻撃が可能だろう。しかしエリカは発勁の衝撃がまだ身体に残っている為か、空中で次の行動に移れなかった。
「……くッ!」
 身体に走る激痛に、顔を歪ませるエリカ。ミノタウロスは唐突に右手を頭上に掲げたが、俺には何をしようとしているのか見当が付かなかった。
「空中にいられると困るのでな。悪いがこちらも、奥の手を使わせて貰う」
 突如として、膨大なエネルギーがミノタウロスの右手に集まる。すると空中に何かブロック状の物体が無数に現れ、即座に組み上がっていく。やがてミノタウロスの右手に現れたのは、無数のブロックが組み合わさって出来た、瓢箪の様な形状をした壺の様なものだった。
「秘宝の力を使えるのは、貴様だけでは無い!!」
 ミノタウロスが叫ぶと壺の表面のブロックが回転していく。それと共に膨大なエネルギーが発生し、周辺の空間が歪んでいく。
「……何だ!? 眼が変だ!」
「ヤバくね? ヤバくね?」
「に、逃げようぜ! オイ!!」
 周囲の人間を巻き込み、壺の生み出す空間の歪みが拡大していく。
 そして。
 突如として俺は石造りの通路に立っていた。


第二話・獣神咆哮
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